ここでは、1561年~1566年までに、本多忠勝(ほんだ ただかつ)が、たずさわったことを勉強します。
1561年(永禄(えいろく)四年)4月、松平元康(まつだいら もとやす=のちの徳川家康(とくがわ いえやす))、今川(いまがわ)方(がた)の三河国牛久保城(みかわのくに うしくぼじょう=現在の愛知県豊川市(あいちけん とよかわし)にあった城)を攻め、今川氏から独立する意志を示しました。7月、忠勝は、三河国長沢(ながさわ=現在の愛知県豊川市)の戦いで、はじめて御首級(みしるし=討ちとった敵の首)を挙げました(あげました=とりました)。
1562年(永禄五年)正月、松平元康と織田信長(おだ のぶなが)が尾張国清洲(おわりのくに きよす=現在の愛知県清須市)で同盟(どうめい=共通の目的を達成するため、同じ行動をとることを約束すること。また、その約束によって生じた関係)を結びました(清州同盟)。この時、忠勝は、交渉(こうしょう=ある事を実現するために、相手と話し合うこと)のため赴いた(おもむいた=ある場所・方角に向かった)清洲城下(じょうか=城のそば)で、織田家の人質であった松平元康が立派になったことを一目見ようと集まった織田の家臣(かしん=けらい)や町人を「わがあるじ、松平元康、会盟(かいめい=人々が集まって盟約(めいやく=同盟)を結ぶこと)のため清洲城内に入る。なんじら、なにゆえかくも騒(さわ)ぐか。無礼(ぶれい)であろう」と一喝(いっかつ=大きな声でしかりつけること)しました。
1563年(永禄六年)7月、松平元康、主君(しゅくん=自分の仕えている殿様など)であった今川氏と関係を断ち(たち=やめ)、名を家康と改めました(あらためました=変えました)。9月、三河一向一揆(みかわ いっこう いっき=三河国で、徳川家康に対立、対抗して浄土真宗本願寺教団の信徒たちが起こした、権力に対する抵抗運動))がおこりました。忠勝は、浄土宗(じょうどしゅう=日本仏教の一宗派)に改宗(かいしゅう=今まで信じていた宗教や宗派を捨てて他の信仰に入ること)し、家康方に従って(したがって)戦いました。
1566年(永禄九年)この年、忠勝は、旗本先手役(はたもとさきてやく=護衛する直属の武士団ではあるが、積極的に戦闘に投入することを目的とした城下に常駐する部隊)に抜擢(ばってき=多くの人の中から特にひきぬいて、ある仕事をさせること)され、与力五十四騎(よりき ごじゅうよん き=上級家臣の指揮下に属する騎馬の武士)を与えられました。12月、家康、三河国を統一(とういつ)し、従五位下(じゅごいのげ=位のひとつ。従五位上の下、従六位上の上)・三河守(かみ)の叙任(じょにん=位を授けて、官に任ずること)を受け、松平から徳川に改姓(かいせい=姓を変えること)しました。
以上諸説あり。