本多忠勝(2/8)(1549年~1560年)

ここでは、1549年~1560年までに、本多忠勝(ほんだ ただかつ)が、たずさわったことを勉強します。

1549年(天文(てんぶん)十八年)3月6日、主君(しゅくん=自分の仕えている殿様など)・松平広忠(まつだいら ひろただ)が、三河国西広瀬城(みかわのくに にしひろせじょう=現在の愛知県豊田市西広瀬町(あいちけん とよたし にしひろせちょう)にあった城)の佐久間九郎左衛門(さくま くろう ざえもん) が遣わした刺客(つかわしたしかく=上位者が下位者を暗殺(あんさつ=ひそかにねらって殺すこと)の役目の者)・岩松八弥(いわまつ はちや)によって暗殺されました 。享年(きょうねん=死んだ時の年齢)24歳でした。同月19日、父・忠高(ただたか)が、三河国安祥(みかわのくに あんしょう=現在の愛知県安城市(あんじょうし))の戦いで討死(うちじに)しました。享年22歳でした。以後、鍋之助(なべのすけ=本多忠勝)は叔父(おじ=父母の弟)・忠真(ただざね)のもとで育ちました。これ以降、鍋之助、元服(げんぷく=男子が成人になったことを示す儀式(ぎしき))前に竹千代(たけちよ=のちの徳川家康)に仕えはじめました。

1555年(天文二十四年)3月、主君の竹千代が元服し、松平次郎三郎元信(まつだいら じろう さぶろう もとのぶ)を名乗りました。

1557年(弘治(こうじ)三年)この頃、松平元信(まつだいら もとのぶ=のちの徳川家康)、名を元康(もとやす)と改めました。

1560年(永禄(えいろく)三年)5月、桶狭間の合戦(おけはざまのかっせん=現在の愛知県名古屋市緑区(なごやし みどりく)と愛知県豊明市(とよあけし)にまたがる地域で行われた今川軍と織田軍の戦い)がありました。鍋之助は、元服して平八郎忠勝(へいはちろう ただかつ)を名乗り、同時に、桶狭間の前哨戦(ぜんしょうせん=戦争において会戦(かいせん=双方の軍が出会って、戦うこと)に先立ち両軍の前哨(軍隊が敵地の近くに停止するとき、警戒のために停止地点の前方に配置する部隊)同士の間で行われる戦闘のこと)として主君・松平元康が行った尾張国大高城(おわりのくに おおだかじょう=現在の愛知県名古屋市緑区大高町にあった城)への兵糧(ひょうろう=戦争時における軍隊の食糧のこと)運び入れに参加して、初陣(ういじん=初めて戦いに出ること)を飾りました(かざりました=勝利しました)。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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