ここでは、1549年~1560年までに、本多忠勝(ほんだ ただかつ)が、たずさわったことを勉強します。
1549年(天文(てんぶん)十八年)3月6日、主君(しゅくん=自分の仕えている殿様など)・松平広忠(まつだいら ひろただ)が、三河国西広瀬城(みかわのくに にしひろせじょう=現在の愛知県豊田市西広瀬町(あいちけん とよたし にしひろせちょう)にあった城)の佐久間九郎左衛門(さくま くろう ざえもん) が遣わした刺客(つかわしたしかく=上位者が下位者を暗殺(あんさつ=ひそかにねらって殺すこと)の役目の者)・岩松八弥(いわまつ はちや)によって暗殺されました 。享年(きょうねん=死んだ時の年齢)24歳でした。同月19日、父・忠高(ただたか)が、三河国安祥(みかわのくに あんしょう=現在の愛知県安城市(あんじょうし))の戦いで討死(うちじに)しました。享年22歳でした。以後、鍋之助(なべのすけ=本多忠勝)は叔父(おじ=父母の弟)・忠真(ただざね)のもとで育ちました。これ以降、鍋之助、元服(げんぷく=男子が成人になったことを示す儀式(ぎしき))前に竹千代(たけちよ=のちの徳川家康)に仕えはじめました。
1555年(天文二十四年)3月、主君の竹千代が元服し、松平次郎三郎元信(まつだいら じろう さぶろう もとのぶ)を名乗りました。
1557年(弘治(こうじ)三年)この頃、松平元信(まつだいら もとのぶ=のちの徳川家康)、名を元康(もとやす)と改めました。
1560年(永禄(えいろく)三年)5月、桶狭間の合戦(おけはざまのかっせん=現在の愛知県名古屋市緑区(なごやし みどりく)と愛知県豊明市(とよあけし)にまたがる地域で行われた今川軍と織田軍の戦い)がありました。鍋之助は、元服して平八郎忠勝(へいはちろう ただかつ)を名乗り、同時に、桶狭間の前哨戦(ぜんしょうせん=戦争において会戦(かいせん=双方の軍が出会って、戦うこと)に先立ち両軍の前哨(軍隊が敵地の近くに停止するとき、警戒のために停止地点の前方に配置する部隊)同士の間で行われる戦闘のこと)として主君・松平元康が行った尾張国大高城(おわりのくに おおだかじょう=現在の愛知県名古屋市緑区大高町にあった城)への兵糧(ひょうろう=戦争時における軍隊の食糧のこと)運び入れに参加して、初陣(ういじん=初めて戦いに出ること)を飾りました(かざりました=勝利しました)。
以上諸説あり。