ここでは、1584年~1590年までに、本多忠勝(ほんだ ただかつ)が、たずさわったことを勉強します。
1584年(天正(てんしょう)十二年)3月、忠勝は、長久手の戦い(ながくてのたたかい=尾張国長久手(おわりのくに ながくて=現在の愛知県長久手市(あいちけん ながくてし))などで、羽柴秀吉(はしば ひでよし=のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし))軍と織田信雄(おだ のぶかつ=織田信長(のぶなが)の次男)・徳川家康(とくがわ いえやす)軍の間で行われた戦い)において、尾張国長久手で勝利した徳川家康(とくがわ いえやす)本隊を追撃(ついげき=逃げる敵を追いかけて攻撃すること)する八万の秀吉(ひでよし)軍に、五百の手勢(てぜい=手下の兵)でたちはだかり、追撃を阻止しました(そししました=くいとめました)。
1585年(天正十三年)閏8月、徳川軍が、真田昌幸(さなだ まさゆき)らの籠る(こもる)上田城(うえだじょう=現在の長野県上田市二の丸(ながのけん うえだし にのまる)にあった城)を攻撃(こうげき)しました(第一次上田合戦)。11月、家康の重臣(じゅうしん=身分の高いけらい)・石川数正(いしかわ かずまさ)が、秀吉のもとに出奔(しゅっぽん=逃げだしてゆくえをくらますこと)しました。
1586年(天正十四年)10月27日、家康が、秀吉に臣従(しんじゅう=けらいとして従うこと)しました。11月9日、忠勝は、従五位下(じゅごいげ=官位の一つ。従五位上の下、正六位上の上)中務大輔(なかつかさの たいふ=皇居(こうきょ)のいろいろな事務(じむ=書類の作成や整理などを行う仕事)をつかさどる中務省の次官)に叙任(じょにん=位を授けて、官に任ずること)されました。
1589年(天正十七年)この年、忠勝の娘・小松姫(こまつひめ)が、家康の養女(ようじょ=)として、真田信幸(さなだ のぶゆき=のちの信之(のぶゆき))に嫁ぎました(とつぎました=よめに行きました)。
1590年(天正十八年)2月、忠勝は、家康に従って小田原征討(おだわら せいとう=豊臣秀吉が後北条氏(ごほうじょうし)を攻め討ち降した戦い)に参加しました。忠勝は、秀吉から佐藤忠信(さとう ただのぶ=平安時代末期(へいあんじだいまっき)の武将(ぶしょう=))の兜(かぶと)を与えられました。この年、家康が、関東に移封(いほう=他の領地へ移すこと)しました。忠勝は、上総国夷隅郡大多喜(かずさのくに いすみぐん おおたき)=現在の千葉県夷隅郡大多喜町(ちばけん いすみぐん おおたきまち))に、榊原康政(さかきばら やすまさ)と同格(どうかく=同じ地位)の、十万石を与えられました。
以上諸説あり。