ここでは、1571年~1572年に、朝倉義景(あさくら よしかげ)が、たずさわったことを勉強します。
1571年(元亀(げっき)二年)6月、顕如(けんにょ=石山本願寺(いしやま ほんがんじ=現在の大阪城本丸の場所にあった寺院)住職)と義景は、たがいに贈り物(おくりもの)を交わし(かわし)、顕如の長子(ちょうし=はじめに生まれた子)・教如(きょうにょ)と義景の娘との婚約(こんやく=結婚の約束をすること)を強固(きょうこ=強くてしっかりしていること)にしました。9月12日、織田信長(おだ のぶなが)が、比叡山延暦寺(ひえいざん えんりゃくじ=現在の滋賀県大津市坂本本町(しがけん おおつし さかもとほんまち)にある寺院)を焼き討ち(やきうち=攻撃目標の城・屋敷などに火矢(ひや=火をつけて放つ矢)を打ち込むこと)にしました。
1572年(元亀三年)7月19日、信長が、近江国(おうみのくに=現在の滋賀県(しがけん))に入って虎御前山(とらごぜやま=現在の滋賀県長浜市中野町(ながはまし ながのちょう))に陣を張り(じんをはり=戦闘態勢に入り)、浅井長政(あざい ながまさ)を圧迫(あっぱく=武力や権力などで押さえつけること)しました。義景は、長政を助けるため、自ら兵(へい=戦いにかかわる者)を率いて近江国に出兵(しゅっぺい=戦争などに、軍隊を派遣(はけん)すること)し、信長と対峙(たいじ=対立する者どうしが、にらみ合ったままじっと動かずにいること)しました。9月、信長が、足利義昭(あしかが よしあき=室町幕府(むろまち ばくふ)第15代の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=幕府の長))に「異見十七ヵ条(=将軍としての義昭が当然しなければならないことをしなかったことを一つ一つあげ、非難(ひなん)したもの)」を出して責めました(せめました=言葉で追いつめました)。11月3日、朝倉・浅井連合軍が、織田方を攻撃(こうげき)しました。12月3日、義景は、近江国から兵を退き(ひき=うしろへさがり)、越後国(えちごのくに=現在の福井県北部)に戻りました。同月22日、甲斐国(かいのくに=現在の山梨県(やまなしけん))の武田信玄(たけだ しんげん)が、近江国三方ヶ原(おうみのくに みかたがはら=現在の静岡県浜松市北区三方原町(しずおかけん はままつし きたく みかたはらちょう))に徳川家康(とくがわ いえやす)を大破(たいは=相手をひどく打ち負かすこと)しました。同月28日、信玄が、義景の帰国を責めました。
以上諸説あり。