朝倉義景(5/8)(1568年~1569年)

ここでは、1568年~1569年までに、朝倉義景(あさくら よしかげ)が、たずさわったことを勉強します。

1568年(永禄十一年)3月8日、義景の母・広徳院(こうとくいん)、義秋(よしあき=室町(むろまち)幕府(ばくふ=武家による政治組織)第十三代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=幕府政権の長たる者の称)・足利義輝(あしかが よしてる)の弟。のちの足利義昭(あしかが よしあき))のはからいで、従二位(じゅにい=地位の一つ、正二位の下、正三位の上)に叙せられました(じょせられました=さずけられました)。4月、義秋、一乗谷(いちじょうだに=福井市南東部、足羽川(あすかわ)に注ぐ一乗谷川に沿う谷間。朝倉氏の本拠地(ほんきょち))で元服(げんぷく=男子が成人になったことを示す儀式)し、義昭と名乗りました。5月17日、義昭、義景の館(やかた)を訪問(ほうもん)しました。6月25日、義景の長男・阿君丸(くまぎみまる)が7歳の若さで亡(な)くなりました。7月25日、義昭、越前国(えちぜんのくに=現在の福井県(ふくいけん)北部)をはなれ、近江国(おうみのくに=現在の滋賀県(しがけん))をへて美濃国(みののくに=現在の岐阜県(ぎふけん)南部)へ入りました。織田信長(おだ のぶなが)、義昭を立政寺(りゅうしょうじ=現在の岐阜県岐阜市西荘(ぎふけん ぎふし にしのしょう)にある寺院)に迎(むか)えました。8月12日、朝倉軍、若狭国(わかさのくに=現在の福井県南部から敦賀市(つるがし)を除いた部分)を攻めて守護(しゅご=室町時代の職名。各国の警備(けいび)、治安維持(ちあんいじ=世の中が治まってやすらかなことを保持すること)に当たった)の武田元昭(たけだ もとあき)を一乗谷に連れ去りました。9月26日、信長、義昭を奉じて(ほうじて=主人としていただく)上洛(じょうらく=京都に入ること)しました。10月18日、義昭は、朝廷(ちょうてい=天皇と貴族からなる中央政権)から将軍宣下(しょうぐんせんげ=征夷大将軍職に任ずる儀式)を受け、室町幕府第十五代征夷大将軍となりました。

1569年(永禄十二年)4月5日、義昭、朝倉氏と加賀一向一揆(かが いっこういっき=加賀一国(現在の石川県(いしかわけん)南部)を自治的に支配していた国人・坊主・農民の寄合)との和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)をはかりました。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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