朝倉義景(4/8)(1566年~1567年)

ここでは、1566年~1567年までに、朝倉義景(あさくら よしかげ)が、たずさわったことを勉強します。

1566年(永禄(えいろく)九年)2月、覚慶(かくけい=室町(むろまち)幕府(ばくふ=武家による政治組織)第十三代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=幕府政権の長たる者の称)・足利義輝(あしかが よしてる)の弟。のちの十五代将軍・足利義昭(あしかが よしあき))、矢島御所(やじまごしょ=現在の滋賀県守山市矢島町(しがけんもりやましやじまちょう))で還俗(げんぞく=お坊さんがふたたび一般の人に戻ること)し、足利義秋(あしかが よしあき)と名乗りました。8月29日、義秋、矢島御所から若狭国(わかさのくに=現在の福井県(ふくいけん)南部から敦賀市(つるがし)を除いた部分)に逃れ、守護(しゅご=室町時代の職名。各国の警備(けいび)、治安維持(ちあんいじ=世の中が治まってやすらかなことを保持すること)に当たった)の武田義統(たけだ よしずみ)をたよるが、若狭国は内乱(ないらん=内戦)状態(じょうたい)であったため、義秋は義景を頼り、越前国敦賀(えちぜんのくに つるが=現在の福井県敦賀市(ふくいけん つるがし))に入りました。10月20日、義秋、朝倉氏と加賀一向一揆(かが いっこういっき=加賀一国(現在の石川県(いしかわけん)南部)を自治的に支配していた国人・坊主・農民の寄合)との和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)をはかりました。

1567年(永禄十年)3月、堀江景忠(ほりえ かげただ)、義景に謀叛(むほん=時の為政者(いせえいしゃ=政治を行うもの)にそむくことである)を起こしました。義景、山崎義家(やまざき よしいえ)らに景忠を攻(せ)めさせ、景忠は能登国(のとのくに=現在の石川県(いしかわけん)北部)へ逃れました。6月5日、本願寺(ほんがんじ=現在の大阪城本丸の場所にあった寺院)の顕如(けんにょ)、堀江景忠に感状(かんじょう=いくさで立てた手がらをほめて、主君や上官が与える書きつけ)を出しました。11月21日、義秋、朝倉氏と加賀一向一揆との和睦をはかりました。12月25日、義景、義秋を一乗谷(いちじょうだに=福井市南東部、足羽川(あすかわ)に注ぐ一乗谷川に沿う谷間。朝倉氏の本拠地(ほんきょち))に迎え、もてなしました。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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