ここでは、明智光秀(あけち みつひで)が亡くなる年(1582年)を勉強します。
1582年(天正十年)3月、光秀を含む織田軍(おだ ぐん)は、天目山(てんもくざん=現在の山梨県甲州市大和町木賊(やまなしけん こうしゅうし やまとちょう とくさ)及び大和町田野(やまとちょう たの)にある峠(とおげ=山道を登りつめてそこから下りになる場所))で武田勝頼(たけだ かつより、1546~1582=甲斐国(かいのくに=現在の山梨県(やまなしけん))の戦国大名。甲斐武田家第20代当主(とうしゅ=その家の現在の主人))を滅(ほろ)ぼしました。五月、光秀は、安土(あづち=現在の滋賀県近江八幡市(しがけん おうみはちまんし))訪問の徳川家康(とくがわ いえやす、1543~1616=戦国大名。天下人 (てんかびと=天下(てんか=国じゅう)の政権を掌握(しょうあく=自分の思いどおりにすること)した人) 。安祥松平家(あんじょう まつだいら け)九代当主。江戸時代・初代征夷大将軍)の接待役を命じられました。同月26日、光秀、本拠(ほんきょ=活動の主なよりどころ)の坂本城(さかもと じょう=現在の滋賀県大津市下阪本(おおつし しもさかもと)にあった城)を出発して、亀山城(かめやま じょう=現在の京都府亀岡市荒塚町(きょうとふ かめおかし あらつかちょう)周辺にあった城)に入りました。同月27日、光秀は、愛宕山(あたごやま=現在の京都府京都市右京区(うきょうく)の北西部にある山)に参詣(さんけい=神社や寺にお参りすること)しました(さんけい=神仏にお参りする)。翌日、連歌(れんが=二人以上の人が、和歌の、上の句と下の句とを互いによみ合って、続けて行く形式の歌)の会に出席しました。6月1日夜、一万三千の兵を率いて光秀は、老ノ坂(おいのさか=現在の京都府京都市と亀岡市(かめおかし)との間にある峠)を越(こ)えました。同月2日未明、光秀は、織田信長 (おだ のぶなが、1534~1582=戦国大名。天下人(てんかびと=天下(てんか=国じゅう)の政権を掌握(しょうあく=自分の思いどおりにすること)した人))を本能寺(ほんのうじ=現在の京都府京都市中京区下本能寺前町(なかぎょうく しもほんのうじまえちょう)にある寺院)に急襲(きゅうしゅう=急におそいかかること)し、自害(じがい=自殺)に追い込みました(享年 (きょうねん=死んだ時の年齢) 四十九)。同日、信長の嫡男(ちゃくなん)・信忠(のぶただ、1557~1582)も二条御所(にじょう ごしょ=現在の京都府京都市中京区烏丸御池(からすまおいけ)にあった寺院)にて自刃(じじん=刃物を使って自らの生命を絶つこと)しました(享年二十六)。同月5日、光秀、近江(おうみ=現在の滋賀県)をほぼ鎮圧(ちんあつ=戦乱を武力でしずめること)し、安土城(あづち じょう=現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦(おうみはちまんし あづちちょう しもといら)にあった城)を接収(せっしゅう=取り上げること)し、同月8日、光秀は、坂本(さかもと=現在の滋賀県大津市下阪本)に帰城(きじょう=自分の城に帰ること)しました。同月9日、光秀は、朝廷(ちょうてい=天子(天皇)が政治を行うところ)や寺院へ、金銀を献上(けんじょう=さしあげること)しました。同月13日、光秀は、山崎の合戦(やまざき の かっせん=光秀軍と羽柴秀吉(はしば ひでよし、1537~1598=大名。天下人。のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし))軍が山崎(大阪府三島郡島本町山崎(みしまぐん しまもとちょう やまざき)、京都府乙訓郡大山崎町(おとくにぐん おおやまざきちょう))で激突した戦い)で羽柴秀吉に敗れ、近江坂本城(おうみ さかもと じょう=現在の滋賀県大津市下阪本にあった城)へ逃亡したが、途中で土地の農民に殺害されてしまいました(享年五十五)。
以上諸説あり。