ここでは、1576年~1581年までに、明智光秀(あけち みつひで)が、たずさわったことを勉強します。
1576年(天正(てんしょう)四年)四月、石山合戦(いしやまかっせん=浄土真宗(じょうどしんしゅう=仏教の宗派のひとつ)石山本願寺(いしやまほんがんじ=現在の大阪府大阪市中央区大阪城にあった寺院)勢力と織田信長(おだ のぶなが、1534~1582=織田信秀の次男。戦国大名。天下人(てんかびと=戦国の乱世(らんせ=戦争のたえない世)を終息させて世の中を統一し支配する人))との戦い)が再開され、光秀も参戦しました。
1577年(天正三年)五月、信長の紀伊(きい=現在の和歌山県(わかやまけん)と三重県(みえけん)南部)征討(せいとう=逆らう者などをせめうつこと)に光秀は従軍(じゅうぐん=軍隊に従って戦地に行くこと)しました。九月、光秀は、内藤氏(ないとうし)の亀山城(かめやま じょう=現在の京都府亀岡市荒塚町(きょうとふ かめおかし あらつかちょう)周辺にあった城)を落としました。十月、信長が、光秀らに命じて、反逆した大和信貴山城(やまとしぎさん じょう=現在の奈良県生駒郡平群町信貴畑(ならけん いこまぐん へぐりちょう しぎはた)にあった城)の松永久秀(まつなが ひさひで、1508~1577=大和国(やまとのくに=現在の奈良県(ならけん))の戦国大名)を攻め自刃(じじん=刀物で自分の生命を絶つこと)させました。
1578年(天正六年)三月、光秀は、八上城(やかみ じょう=現在の兵庫県篠山市(ひょうごけん ささやまし)にあった城)を囲(かこ)み、ついで摂津(せっつ=現在の大阪府北部と兵庫県の一部)へ転戦(てんせん=あちこちと場所を変えて戦うこと)しました。十月、摂津有岡(せっつありおか=伊丹(いたみ))=現在の兵庫県伊丹市伊丹)城主・荒木村重(あらき むらしげ、1535~1586=大名)が信長に背(そむく)たことにより、光秀は、荒木村重の摂津有岡城を攻めました。
1579年(天正七年)二月、光秀は、丹波(たんば)に出陣し、五月に氷上城(ひかみ じょう=現在の兵庫県丹波市氷上町氷上(ひかみちょう ひかみ)にあった城)を落としました。八月、光秀は、丹波平定(へいてい=敵や賊(ぞく)を討ち平らげること)を完了し、丹波一国の支配を認められました。九月、城主・荒木村重の離脱(りだつ=関係を断ってぬけだすこと)した有岡城(ありおか じょう=現在の兵庫県伊丹市にある城)を陥落(かんらく=攻め落とすこと)しました。
1580年(天正八月)三月、本願寺(ほんがんじ=現在の京都府京都市下京区堀川通花屋町(しもぎょうく ほりかわはなやちょう)にある寺院)顕如(けんにょ、1543~1592=石山本願寺住職)と和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)し、石山合戦が終わりました。四月、羽柴秀吉(はしば ひでよし、=のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)。大名。天下人)を援(たす)け、光秀が備中(びっちゅう=現在の岡山県(おかやまけん)西部)に出陣しました(しゅつじんしました=戦場へ向かいました)。
1581年(天正九年)二月、京都にて正親町天皇(おおぎまち てんのう、1517~1593=第106代天皇)も臨席(りんせき=出席)する中、大々的(だいだいてき=大がかりに事を行うさま)な馬揃(うまぞろえ=騎馬を集めてその優越を競いあう武家の行事)を催(もよお=開催)しました。光秀は、準備を担当し、馬揃を成功させました。八月、因幡鳥取城(いなば とっとり じょう=鳥取県鳥取市(とっとりけん とっとりし)にあった城)を攻めていた秀吉を、光秀が救援しました。
以上諸説あり。