ここでは、1571年~1575年までに、明智光秀(あけち みつひで)が、たずさわったことを勉強します。
1571年(元亀(げんき)二年)九月、比叡山(ひえいざん=滋賀県大津市(しがけん おおつし)西部と京都府京都市(きょうとふ きょうとし)北東部にまたがる山)を焼き討(う)ちました。光秀はこの焼き討ちで第一級の手柄(てがら=人からほめられるおうな立派な働き)を挙げ、近江国志賀郡(おうみのくに しがぐん=現在の滋賀県大津市の一部)を与(あた)えられて坂本城(さかもと じょう=現在の滋賀県大津市下阪本(しもさかもと)にあった城)を築城(ちくじょう=城をたてること)しました。
1572年(元亀三年)光秀は、近江滋賀群(おうみしがぐん=現在の滋賀県)の木戸城(きど じょう=現在の滋賀県大津市木戸(きど)にあった城)と、田中城(たなか じょう=現在の現在の滋賀県高島市安曇川町田中(たかしまし あどがわちょう たなか)にあった城)の両城を攻(せ)めました。七月、織田信長 (おだ のぶなが、1534~1582=戦国大名。天下人(てんかびと=天下(てんか=国じゅう)の政権を掌握(しょうあく=自分の思いどおりにすること)した人))は 、小谷城(おだに じょう=現在の滋賀県長浜市湖北町伊部(ながはまし こほくちょう いべ)にあった城)の浅井長政(あさい ながまさ、1545~1573=北近江(きたおうみのくに=現在の滋賀県長浜市・米原市(まいばらし)・彦根市鳥居本町(こねし とりいもとちょう))の戦国大名。浅井氏3代目当主(とうしゅ=その家の現在の主人))を攻めました。光秀も信長軍に参軍(さんぐん=戦いに参加)しました。
1573年(天正(てんしょう)元年)光秀は、木戸・田中の両城を信長より拝領(はいりょう=目上の者よりものを頂くこと)されました。七月、信長、将軍義昭(よしあき、1537~1597=室町幕府第15代将軍)を追放しました(室町幕府の滅亡)。八月、浅井長政(あさい ながまさ)・朝倉義景(あさくら よしかげ)を攻め滅ぼしました。光秀、越前(えちぜん=現在の福井県(ふくいけん)北東部)の政務(政治(主権者が、領土・人民を治めること)を行うに当たって起こる事務(主に役所や会社などの場で、書類の作成や整理などを行う作業全般))に携(たずさ=かかわる)わりました。
1574年(天正二年)光秀、大和(やまと=現在の奈良県(ならけん))の多聞山城(たもんやま じょう=現在の奈良県奈良市立若草中学校(わかくさちゅうがっこう)にあった城)を守り、美濃(みの=現在の岐阜県(ぎふけん)南部)へ出陣(しゅつじん=戦争に出向く)し、河内(かわち=現在の大阪府(おおさかふ)東部)の三好氏(みよしし)と戦いました。
1575年(天正三年)七月、光秀は、九州(きゅうしゅう)の名門(めいもん=由緒(ゆいしょ)ある家系)「惟任(これとう)」の名字(みょうじ)を与えられ、日向守(ひゅうがのかみ=現在の宮崎県(みやざきけん)の長官)に任ぜられました。八月、光秀は、信長とともに越前(えちぜん=現在の福井県(ふくいけん)北東部)に出陣し、一向一揆(浄土真宗本願寺派(じょうどしんしゅう ほんがんじは=仏教の宗派のひとつ)による暴動)と戦いました。この年より、光秀は、丹波(たんば=現在の京都府中部と兵庫県北東部と大阪府北部)攻略(こうりゃく=相手を打ち負かすこと)を担当しました。
以上諸説あり。