斎藤道三(9/10)(1544年~1550年)

ここでは、1544年~1550年までを勉強します。

1544年(天文十三年) 8月、尾張国(おわりのくに=現在の愛知県(あいちけん)西部)の織田信秀(おだ のぶひで※6)と越前国(えちぜんのくに=現在の福井県嶺北(ふくいけん れいほく)地方(岐阜県(ぎふけん)北西部含む)・敦賀市(つるがし))の朝倉氏(あさくら し)が土岐頼芸(とき よりなり※1)と和睦(わぼく=争いをやめて仲直り)した土岐頼純(よりずみ※2)を奉じて(ほじて=主人として)美濃国へ侵攻し(しんこう し=他国や他の領地(りょうち=自分のものとしてもつ土地)に攻(せ)め込み)ました。また、西美濃三人衆、安藤守就(あんどう もりなり※9)・稲葉良道(いなば よしみち※10)・氏家直元(うじいえ なおもと※11)氏らが、「マムシ退治」と称(しょう)して叛旗を翻し(はんきをひるがえし=裏切り)、頼芸・頼純方につきましたが、斎藤新九郎利政(さいとう しんくろう としまさ=のちの道三)は織田勢を破(やぶ)りました。新九郎利政は、頼芸、頼純と叛旗を翻した安藤、稲葉、氏家を許しました。

1546年(天文十五年) 秋、新九郎利政は土岐頼純の美濃守護就任(しゅうにん=新しい役割につく)という条件(じょうけん=約束や決定をする際に、その内容に関しての前提や約束となることがら)をのんで朝倉孝景(あさくら たかかげ※)と和睦しました。また頼純に帰蝶(きちょう※3)を嫁(とつ)がせました。

1547年(天文十六年) 9月、織田信秀が稲葉山城を攻めてきましたが、新九郎利政の籠城(ろうじょう=城にたてこもって敵を防ぐこと)しました。利政は信秀の油断を突き、織田軍を撃破しました(加納口の戦い)。この戦いで、織田軍は信秀の弟・信康(のぶやす※7)を含む、約五千の織田軍が戦死しました。11月17日、土岐頼純が亡くなり(新九郎利政による暗殺?)、土岐頼芸が再び美濃守護となりました。

1548年(天文十七年) この年、新九郎利政は、平手政秀(ひらて まさひで※12)の仲介(ちゅうかい=両者の間にはいって、とりついだり、まとめたりすること)で織田信秀と和睦しました。

1549年(天文十八年) 2月24日、新九郎利政の娘・帰蝶が織田信秀の嫡男(ちゃくなん=あととり。正室の生んだ男子のうち最も年長の子)・織田信長(おだ のぶなが※8)と婚姻しました。

1550年(天文十九年) 秋、新九郎利政は、土岐頼芸を美濃から追放し、道三の美濃の国盗(と)りは終わりました。

__________

※1 とき よりなり、1502~1582=美濃国の守護大名。妻は六角定頼(ろっかく さだより※1-1)の娘。側室は深芳野(みよしの※1-2)。
※1-1 ろっかく さだより、1495~1552=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。近江(おうみ=現在の滋賀県(しがけん))守護。南近江(みなみおうみ=現在の滋賀県南部)の戦国大名。六角氏14代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)
※1-2 みよしの、頼芸の愛妾(あいしょう=気に入りの妾(めかけ=婚姻(こんいん=結婚)した男性が、妻以外にも囲う女性))でのちに道三の側室(そくしつ=妻以外に囲う女性)となる。斎藤義龍(※4)の母
※2 とき よりずみ、1524~1547=美濃国の守護大名。母は朝倉貞景(あさくら さだかげ※2-1)の三女。妻は道三の娘・帰蝶(きちょう※3)
※2-1 あさくら さだかげ、1473~1512=越前国(えちぜんのくに=現在の福井県嶺北(ふくいけん れいほく)地方(岐阜県(ぎふけん)北西部含む)・敦賀市(つるがし))の戦国大名。朝倉氏9代当主。朝倉氏景(うじかげ)の嫡男(ちゃくなん=あととり)。孝景(たかかげ)と景高(かげたか)の父

※3 きちょう、1535~=濃姫(のうひめ)。土岐頼純(とき よりずみ※2)の正室(せいしつ=身分ある人の正式な妻)。頼純死後、織田信長(おだ のぶなが※8)の正室となる。母は小見の方(おみのかた※5)
※4 さいとう よしたつ、1527~1561=幼名・豊太丸(とよたまる)⇒元服(げんぷく=男子が成人になったことを示す儀式)後・利尚(としなお)⇒高政(たかまさ)⇒道三没後、義龍。武将。美濃国の守護代、守護、戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)。道三流斎藤氏の第2代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。母は側室(そくしつ=妻以外に囲う女性)・深芳野(みよしの※4)。

※5 おみのかた、1513~1551、道三の正室。帰蝶の母

※6 おだ のぶひで、1511~1552=勝幡(しょばた=現在の愛知県愛西市勝幡町(あいちけん あいさいし しょばたちょう)と稲沢市平和町城之内(いなざわし へいわちょう しろのうち))織田家4代当主。尾張国(おわりのくに=現在の愛知県西部)の武将(ぶしょう==武士(ぶし=さむらい)の大将)、戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)。織田信長(おだ のぶなが※8)の父
※7 おだ のぶやす、~1554=武将。織田信秀の弟
※8 おだ のぶなが、1534~1582=勝幡織田家5代当主。武将・戦国大名。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人(信長・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし※8-1)・徳川家康(とくがわ いえやす※8-2)))の一人
※8-1 とよとみ ひでよし、1537~1598=武将・大名。天下人。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑の一人
※8-2 とくがわ いえやす、1543~1616=戦国大名。安祥松平家(あんしょう まつだいら け)九代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。のちの天下人。江戸幕府(えどばくふ※8-2-1)の初代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号)。三英傑の一人
※8-2-1 えど ばくふ=家康が江戸(えど=現在の東京都)に開いた武家政権(ぶけ せいけん=※8-2-1-1)
※8-2-1-1 ぶけ せいけん=武家(ぶけ=武士(ぶし=さむらい)の家筋(いえすじ=家系))が掌握した(しょうあくした=自分の思いどおりにした)政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策(せいさく=目標を達成するために手段)を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治する(とうちする=まとめおさめる)仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)
※9 あんどう もりなり、1503~1582、武将。美濃国北方城(きたがた じょう=現在の岐阜県本巣郡北方町(もとすぐん きたがたちょう)にあった城)主(しゅ=あるじ)。西美濃三人衆の一人(他の二人は稲葉良通(いなば よしみち※10)、氏家直元(うじいえ なおもと※11))
※10 いなば よしみち、1515~1589、武将。美濃国曽根城(そね じょう=現在の岐阜県大垣市(おおがきし)にあった城)主。西美濃三人衆(安藤守就、稲葉良通、氏家直元(うじいえ なおもと※11))の一人
※11 うじいえ なおみち、1512~1571=武将。氏家氏12代当主。西美濃三人衆の一人(他の二人は安藤守就と稲葉良通)
※12 ひらて まさひで、1492~1553=武将。織田信秀、信長の2代に仕える。志賀城(しがじょう=現在の愛知県名古屋市北区平手町(なごやし きたく ひらてちょう))主
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

以上所説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA