ここでは、1535年~1538年までを勉強します。
1535年(天文四年) この年、正室・小見の方(おみのかた※9)に娘・帰蝶(kちょう※8)が生まれました。6月、土岐頼芸(とき よりなり※3)は、越前(えちぜん=現在の福井県嶺北(ふくいけん れいほく)地方(岐阜県(ぎふけん)北西部含む)・敦賀市(つるがし))で土岐家の後継ぎの正統性(せいとうせい=正しい血筋(ちすじ=祖先(そせん=その家の初代の主)からの血のつながり))を主張(しゅちょう=自分の意見を言いはること)する土岐頼武(よりたけ※2)をけん制(けんせい=相手が何かをしようとしている時に、その動きを封(ふう)じ込めるために、威圧し(いあつし=威力(いりょく)で、相手をおさえつけ)たり威嚇(いかく=おどか)したり注意したり)するため、父・土岐政房(まさふさ※1)の十七回忌(亡くなった年を一年として数えた年数よって十六年後の法要(ほうよう※))を盛大(せいだい)に執(と)り行いました。法要が終わったのち、長井新九郎規秀(ながい しんくろう のりひで=のちの道三)は守護代・斎藤利良(さいとうとしなが※6)に子がいないこともあり、利良の養子(ようし=血縁(げつえん=血のつながり)関係なく親子関係になること)になり、斎藤新九郎利政(しんくろう としまさ)と改(あらた)めました。これにより、長井家を乗っ取った上、斎藤家の牙(きば)をむいた(きばをむいた=後継ぎになる)ことに、まるで「マムシ」のように見え「美濃のマムシ」の異名(いみょう=あだな)がつきました。夏、頼芸の行った法要に激怒した頼武の子・土岐頼純(よりずみ※4)は美濃の正統な主(あるじ)は自分であることを訴(うった)えるため、越前(えちぜん=現在の福井県嶺北(ふくいけん れいほく)地方(岐阜県北西部含む)・敦賀市(つるがし))の朝倉氏(あさくら し)と南近江(みなみおうみ=現在の滋賀県(しがけん)南部)の六角氏(ろっかく し)の支援(しえん=力を貸して助けること)を受け、美濃に侵攻(しんこう=敵地(てきち)に入ってせめること)し、頼芸の居城(きょじょう=その人がふだん住んでいる城)・大桑城(おおが じょう=現在の岐阜県岐阜市山県市(やまがたし)にあった城)を占領し(せんりょうし=他国(たこく=他人の国)の領土(りょうど=自分のものとしてもった土地)を武力によって自国(じこく=じぶんの国)の支配下(しはいか=自分の思いのままに動かせる状態)に置き)、頼純が美濃の守護になりました。新九郎利政はまだ幼い豊太丸(とよたまる=のちの義龍(よしたつ※7))を伊勢(いせ=現在の三重県(みえけん)の北中部、愛知県弥富市(あいちけん やとみし)の一部、愛知県愛西市(あいさいし)の一部、岐阜県海津市(かいづし)の一部)に避難さ(ひなん さ=思いがけない不幸(ふこう)な出来事(できごと)をさけて他の場所へ行か)せました。土岐家の争(あらそ)いに参陣し(さんじん し=陣営(じんえい=戦場で軍勢が集結して待機している所)に加わり)ました。
1536年(天文五年) 8月、新九郎利政と土岐頼芸が、土岐頼純の連合軍との合戦で勝利し、頼芸が正式に美濃の守護に再度就任し(しゅうにん し=新しい役割につき)まいた。尚、伊勢に避難していた豊太丸は、美濃常在寺(じょうざいじ=現在の岐阜県岐阜市梶川町(かじかわちょう)にある寺院)の日運(にちうん※5)に預(あず)けられました。
1537年(天文六年) この年、土岐頼芸の娘が近江守護・六角義賢(ろかく よしかた※)に嫁ぎ、頼芸・利政が六角氏と和睦し(わぼく し=争いをやめて仲直りし)ました。
1538年(天文七年) この年、美濃守護代・斎藤利良が病死し、新九郎利政が美濃守護代を継承し(けいしょう し=うけつぎ)ました。
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※1 とき まさふさ、1457~1519=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。美濃国の守護大名。
※2 とき よりたけ、?~?=美濃国の守護大名(しゅごだいみょう※1)。妻は朝倉貞景(あさくら さだかげ※2-1)の三女
※2-1 あさくら さだかげ、1473~1512=越前(えちぜん=現在の福井県嶺北(ふくいけん れいほく)地方(岐阜県北西部含む)・敦賀市(つるがし))の戦国大名(せんごく だいみょう※2-1-1)。朝倉氏第9代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)
※2-1-1 せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名
※3 とき よりなり、1502~1582=美濃国の守護大名。。妻は六角定頼(ろっかく さだより※3-1)の娘。側室は深芳野(みよしの※3-2)
※3-1 ろっかく さだより、1495~1552=武将。近江(おうみ=現在の滋賀県(しがけん))守護。南近江(みなみおうみ=現在の滋賀県南部)の戦国大名。六角氏14代当主
※3-2 みよしの、頼芸の愛妾(あいしょう=気に入りの妾(めかけ=婚姻(こんいん=結婚)した男性が、妻以外にも囲う女性))でのちに道三の側室(そくしつ=妻以外に囲う女性)となる。斎藤義龍(※7)の母
※4 とき よりずみ、1524~1547=美濃国の守護大名。母は朝倉貞景の三女。妻は道三の娘・帰蝶(きちょう※8)

※5 にちうん、1484~?=常在寺(じょうざいじ=現在の岐阜県岐阜市梶川町(かじかわちょう)にある寺院)住職。若い頃の妙覚寺(みょうかくじ=現在の京都府京都市上京区(きょうとふ きょうとし かみきょうく)にある寺院)の僧侶・南陽坊(なんようぼう)。斎藤道三の父と同門(どうもん=同じ師匠・先生のもとで学んだ人)
※6 さいとう としなが、~1538=武将。美濃守護代
※7 さいとう よしたつ、1527~1561=幼名・豊太丸(とよたまる)⇒元服(げんぷく=男子が成人になったことを示す儀式)後・利尚(としなお)⇒高政(たかまさ)⇒道三没後、義龍。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。美濃国の守護代、守護、戦国大名。道三流斎藤氏の第2代当主。母は側室(そくしつ=妻以外に囲う女性)・深芳野(みよしの※3-2)
※8 きちょう、1535~=濃姫(のうひめ)。土岐頼純(とき よりずみ※2)の正室(せいしつ=身分ある人の正式な妻)。頼純死後、織田信長(おだ のぶなが※3)の正室となる。母は小見の方(おみのかた)

※9 おみのかた、1513~1551、道三の正室。帰蝶の母
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以上所説あり。