ここでは、1517年~1519年を勉強します。
1517年(永正(えいしょう)十四年) 美濃(みの=現在の岐阜県(ぎふけん)南部)守護(しゅご=室町時代(むろまち じだい※1)の職の1つで、地方を支配するために置かれた役人)・土岐政房(とき まさふさ※2)の後継者(こうけいしゃ=あとをつぐもの)争いで兄弟が対立していました。原因は、政房の嫡男(ちゃくなん=正室(せいしつ=身分ある人の正式な妻)の生んだ男子のうち最も年長の子)・頼武(よりたけ※4)が継ぐのが道理(どうり=人として行うべき正しい道)であるところ、政房は、溺愛(できあいし=むやみにかわいがっ)ていた次男・土岐頼芸(とき よりなり※5)を後継(あとつぎ)にしたいと願ったからでした。嫡男・頼武には守護代(しゅごだい=守護の下に置かれた役職)・斎藤利長(さいとう としなが※15)がつき、次男・頼芸には小守護代(こしゅごだい=守護代の家人(けにん=けらい)でその職務を助ける役職)・長井長弘(ながい ながひろ※25)がつきました。西村勘九郎(にしむら かんくろう=規秀(のりひで=道三)の父)は、これまで以上に力が必要と長弘に告げられ、長井姓(せい=一族)を認められ、長井新左衛門尉(ながい しんざえもんのじょう)と改名し、同名衆(どうみょうしゅう=同じ苗字(みよじ=家の名)を持ち行動をともにした武士の集団)の一員として、後継(あとつぎ)をめぐる争いに参陣する(さんじん=陣営(じんえい=戦場で軍勢が集結して待機している所)に加わる)ことになりました。尚、規秀(のりひで=道三)も長井新九郎規秀と改め参陣していました。しかし、数に勝(まさ)る斎藤軍(頼武方)に敗北してしまいました。
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※1 むろまち じだい=足利(あしかが)将軍(しょうぐん=征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=※1-1))家によって統治されて(とうちされて=まとめおさめられて)いた時代。
※1-1 せいいたいしょうぐん=武士による政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治(とうち=まとめおさめること)する仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)のトップの称号。
※2 とき まさふさ、1457~1519=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。土岐成頼(しげより※3)の長男。美濃(みの=現在の岐阜県(ぎふけん)南部)守護。頼武(よりたけ※4)、頼芸(よりなり※5)の父
※3 とき しげより、1442~1497=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、守護大名(しゅご だいみょう※3-1)。美濃(みの=現在の岐阜県(ぎふけん)南部)守護。土岐氏第11代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)
※3-1 しゅご だいみょう=室町時代の職の1つで、地方を支配するために置かれた役人
※4 とき よりたけ、?~?=美濃国の守護大名。政房の嫡男(ちゃくなん=正室(せいしつ=身分ある人の正式な妻)の生んだ男子のうち最も年長の子)。弟は頼芸(よりなり※5)。妻は朝倉貞景(あさくら てるしげ※10)の三女。頼純(よりずみ※10)の父。
※5 とき よりなり、1502~1582=美濃国の守護大名。政房の次男。兄は頼武。妻は六角定頼(ろっかく さだより※6)の娘。側室は深芳野(みよしの※7)。
※6 ろっかく さだより、1495~1552=武将。近江(おうみ=現在の滋賀県(しがけん))守護。南近江(みなみおうみ=現在の滋賀県南部)の戦国大名(せんごく だいみょう※6-1)。六角氏14代当主
※6-1 せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名
※7 みよしの、頼芸の愛妾(あいしょう=気に入りの妾(めかけ=婚姻(こんいん=結婚)した男性が、妻以外にも囲う女性))でのちに道三の側室(そくしつ=妻以外に囲う女性)となる。斎藤義龍(さいとう よしたつ※8)の母
※8 さいとう よしたつ、1527~1561=幼名は豊太丸(とよたまる)。武将。美濃の戦国大名。道三流斎藤氏の第2代当主。母は側室・深芳野(みよしの※7)。道三の子
※9 きちょう、1535~=濃姫(のうひめ)。斎藤道三の娘。土岐頼純(とき よりずみ※10)の正室。頼純死後、織田信長(おだ のぶなが※12)の正室となる。
※10 とき よりずみ、1524~1547=美濃国の守護大名。頼武の嫡男で、母は朝倉貞景(あさくら てるかげ※11)の三女。妻は道三の娘・帰蝶
※11 あさくら さだかげ、1473~1512=越前(えちぜん=現在の福井県嶺北(ふくいけん れいほく)地方(岐阜県(ぎふけん)北西部含む)・敦賀市(つるがし))の戦国大名。朝倉氏第9代当主。朝倉氏景(うじかげ※11-1)の嫡男。孝景(たかかげ※11-2)と景高(かげたか※11-3)の父
※11-1 あさくら うじかげ、1449~1486=越前国の戦国大名。朝倉氏8代当主。朝倉孝景(あさくら たかかげ、1428~1481=英林孝景(えいりん たかかげ)。朝倉氏7代当主)の嫡男(ちゃくなん=あととり)で、母は朝倉将景(あさくら まさかげ、~1459=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。朝倉氏5代当主・朝倉教景(のりかげ、1380~1463=武将。朝倉氏5代目当主)の子)の娘。貞景の父
※11-2 あさくら たかかげ、1493~1548=越前国の大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。朝倉氏10代目当主。貞景の子。朝倉義景(よしかげ※11-2-1)の父。母は美濃守護代・斎藤利国の娘。妹は美濃守護・土岐頼武の正室、嫡男・土岐頼純。曾祖父(そうそふ=おじいちゃんのお父さん)・朝倉氏7代目当主・孝景にあやかって、自身も「孝景」と名乗りました
※11-2-1 あさくら よしかげ、1533~1573=武将。越前国の戦国大名。朝倉氏最後(第11代)の当主。朝倉氏10代当主・朝倉孝景の長男
※11-3 あさくら かげたか、1495~1543=武将。朝倉氏9代当主・貞景の次男。朝倉氏10代当主・朝倉孝景の弟
※12 おだ のぶなが、1534~1582=勝幡(しょばた=現在の愛知県愛西市勝幡町(あいちけん あいさいし しょばたちょう)と稲沢市平和町城之内(いなざわし へいわちょう しろのうち))織田家5代当主。武将・戦国大名。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人(信長・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし※13)・徳川家康(とくがわ いえやす※14)))の一人
※13 とよとみ ひでよし、1537~1598=武将・大名。天下人。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑の一人
※14 とくがわ いえやす、1543~1616=戦国大名。安祥松平家(あんしょう まつだいら け)九代当主。のちの天下人。江戸幕府(えどばくふ※14-1)の初代征夷大将軍。三英傑の一人
※14-1 えど ばくふ=家康が江戸(えど=現在の東京都)に開いた武家政権(ぶけ せいけん=※14-1-1)
※14-1-1 ぶけ せいけん=武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))が掌握した(しょうあくした=自分の思いどおりにした)政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策(せいさく=目標を達成するために手段)を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治する(とうちする=まとめおさめる)仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)
※15 さいとう としなが、~1538=武将。美濃守護代(しゅごだい=守護の下に置かれた役職)。斎藤利親(さいとう としちか※16)の嫡男。美濃斎藤氏持是院家(じぜいん け※17)6代目当主
※16 さいとう としちか、1473~1497=武将。斎藤妙純(みょうじゅん※18)の嫡男。美濃斎藤氏持是院家3代目当主。利良(としなが※15)の父
※17 じぜいん け=美濃斎藤氏守護代家に対して、妙椿の家系(善恵寺(ぜんね じ=現在の岐阜県加茂郡八百津町(ぎふけん かもぐん やおつちょう)にある寺院)に持是院という子院(しいん※17-1)を構えたため)。
※17-1 しいん=本寺(ほんじ=この寺)の境内(けいだい=寺院の敷地内(しきちない))にあり、本寺に付属する小寺院(こじいん=小さい寺)
※18 さいとう みょうじゅん、~1497=斎藤利国(さいとう としくに)。武将。父は利永(としなが※19)。斎藤妙椿(みょうちん※20)の養子.(ようし=血縁(げつえん=血のつながり)関係なく親子関係になること)。美濃斎藤氏持是院家(じぜいん け※17)2代目当主。利親(としちか※16)、又四郎(またしろう※23)、彦四郎(ひこしろう※24)の父
※19 さいとう としなが、~1460=武将。美濃斎藤氏2代目守護代。父は斎藤宗円(さいとう そうえん※21)。利藤(としふじ※22)と妙純(みょうじゅん※18)の父
※20 さいとう みょうちん、1411~1480=武将・僧(そう=お坊さん)。美濃斎藤氏持是院家初代当主。父は斎藤宗円(さいとう そうえん※21)。
※21 さいとう そうえん、1389~1450=武将。美濃斎藤氏初代守護代。父は斎藤祐具(さいとう ゆうぐ、?~?=武将)。利永(としなが※19)、妙椿(みょうちん※20)の父
※22 さいとう としふじ、~1498=武将。美濃斎藤氏3代目守護代。父は利永(としなが※19)
※23 さいとう またしろう、1482~1499=武将。妙純の次男。美濃斎藤氏持是院家4代目当主
※24 さいとう ひこしろう、?~?=武将。妙純の3男。美濃斎藤氏持是院家5代目当主
※25 ながい ながひろ、~1533=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。美濃(みの=現在の岐阜県(ぎふけん)南部)小守護代(こしゅごだい※25-1)。父は長井秀弘(ながい ひでひろ、~1497、武将)
※25-1 こしゅごだい=守護代の家人(けにん=けらい)でその職務を助ける役職
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1518年(永正十五年) 8月、新左衛門尉は、尾張(おわり=現在の愛知県西部)に亡命し(ぼうめい=政治的な理由により身の危険を回避する(物事をさける)ため、自国から外国へ逃れ)ていた斎藤彦四郎(さいとう ひこしろう※24)と同盟し(どうめいし=互いに共通の目的を達成するために同一の行動をとることを約束した関係となり)、頼武方に挑んだ戦いで勝利しました。敗北した土岐頼武と斎藤利長は、戦いで味方をしていた越前の守護代・朝倉孝景(あさくら たかかげ※11-2)のもとへ逃れました。
1519年(永正十六年) 6月、美濃守護・土岐政房が病で死去しました。享年、五十三でした。これを機会に、越前から朝倉景高(かげたか※11-3)が、土岐頼武と斎藤利長と共に美濃へ侵攻し(しんこう し=敵地に侵入(しんにゅう)してせめ)、頼武が守護となり、頼芸方である長井長弘と新左衛門尉・新九郎規秀(道三)父子は逼塞する(ひっそくする=落ちぶれて、隠れて暮らす)ことになりました。
以上所説あり。