ここでは、1600年、関ヶ原の戦いから、1603年、江戸幕府が成立するまでを勉強します。
1600年(慶長(けいちょう)五年)2月頃、加賀前田氏(かが まえだ し)と和睦(わぼく=争いをやめ仲直りすること)しました。6月16日、会津(あいづ=現在の福島県の西部)征討(せいとう=反逆する者をせめうつこと)へ向け出陣(しゅつじん=戦争に出向くこと)しました。7月25日、「小山評定(おやま ひょうじょう=現在の栃木県小山市に福島正則など諸将(多くの将軍、大将)を呼び寄せ、関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい=現在の岐阜県不破郡関ケ原町を主戦場として行われた野戦(山野(さんや=野山)で行う戦い))の敵味方を決めること)」が行われ、徳川方の諸将が西に向けて進軍(しんぐん=軍を進めること)しました。そして9月15日、関ヶ原の戦いがはじまりました。摂津大坂城(せっつ おおさか じょう=現在の大阪府大阪市中央区大阪城にあった城)から毛利輝元(もうり てるもと)を退去させ、家康が入城(城に入ること)しました。
1601年(慶長六年)3月23日、徳川氏による天下統治(てんかとうち=一国の政治をまとめおさめること)の政庁(せいちょう=政治上の事務などを行う役所)を山城伏見城(やましろ ふしみ じょう=現在の京都市伏見区桃山にあった城)として、そこに移りました。3月28日、嫡男(ちゃくなん=あとつぎ)の秀忠(ひでただ)が源姓(みなもと の しょう)で権大納言(ごんのだいなごん=大納言の定員に空きがない場合の職名)となりました。7月24日、上杉景勝(うえすぎ かげかつ)が家康に従属(じゅうぞく=ほかのものの下につき従うこと)の意(心の中の思い)を示しました。
1602年(慶長七年)5月8日、常陸(ひたち=現在の茨城県の大部分)佐竹氏(さたけ し)を出羽国(でわのくに=現在の秋田県の大部分と山形県)秋田領(あきたりょう)へ減移封(げんいぽう=大名などを他の少ない領地へ移すこと)させました。12月28日、島津忠恒(しまづ ただつね=のちの島津家久(しまづ いえひさ))が上洛(じょうらく=京都にいく)し、家康へ臣従(しんじゅう=臣下(しんか=君主に仕える者)として従うこと)の意を示しました。
1603年(慶長八年)2月12日、従一位(じゅいちい=位階の一つ。正一位の下位にあたり、正二位の上位にあたる。)右大臣(うだいじん=官職の一つ。左大臣の次にあたる位。)兼征夷大将軍(けん せいい たいしょうぐん=幕府の主宰者(しゅさいしゃ)の職名)となり、江戸幕府となりました。3月25日、後陽成天皇(ごようぜい てんのう)への拝賀(はいが= 天皇に礼を申し述べること)のため参内(さんだい=天皇が居住し儀式・公務をとり行った場所に参上)しました。
以上所説あり。