ここでは、1597年、慶長の役(けいちょうのやく=朝鮮に対する侵略戦争)から、1599年、大坂城西の丸(にしのまる)に入るまでを勉強します。
1597年(慶長(けいちょう)二年)5月28日、秀頼(ひでより)に従(したが)い参内(さんだい=天皇が居住し儀式・公務をとり行った場所に参上)しました。6月には、慶長の役(けいちょうのやく=朝鮮に対する侵略戦争)が始まりました。
1598年(慶長三年)8月18日、秀吉が死去しました。その直前設(もう)けられた五大老(ごたいろう=前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元(まえだ としいえ・うきた ひでいえ・うえすぎ かげかつ・もうり てるもと)と家康の五大名)に家康が加わりました。9月3日、五大老と五奉行(前田玄以・浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家(まえだ げんい・あさの ながまさ・いしだ・みつなり・ました ながもり・なつか まさいえ)の5人)の間で、秀頼への忠誠(ちゅうせい=忠実で正直な心)に努め、恣意(しい=自分の思うまま)なきように互いの関係を確認すべく起請文(きしょうもん=現在でいう古文書)を認めました。
1599年(慶長四年)正月10日、秀頼は父秀吉の遺言(ゆいごん)で摂津大坂城(せっつ おおさかじょう=現在の大阪府大阪市中央区大阪城にある城)に移りました。同月19日になると、四大老・五奉行から私婚(しこん=政治的な思惑から大名家の結婚)を取り結んだことを糺問(きゅうもん=罪を厳しく問いただすこと)されますが、2月5日、一触即発(危機に直面していること)の事態となりましたが、昵懇(じっこん=親しく打ち解けてつきあうこと)や秀吉の定めた決まりや前年9月3日に五大老・五奉行の間で交わした誓約を遵守(じゅんしゅ=守り、従うこと)することなどを記した起請文が交わされ、和平(わへい=平和)に至りました。閏月10日、家康と毛利輝元・上杉景勝の間で事態の収拾(しゅうしゅう=混乱をおさめること)し、石田三成を近江佐和山城(おうみ さわやま じょう=現在の滋賀県彦根市佐和山にあった城)へ追放しました。同月13日、山城伏見城(やましろ ふしみ じょう=現在の京都市伏見区桃山にあった城)へ入城しました。7月9日、庄内の乱(しょうないのらん=現在の宮崎県都城市及びその周辺で起きた、薩摩島津氏(さつま しまづ し)とその重臣(身分の高い家来)である伊集院氏(いじゅういんし)との戦い)において島津氏を援護するため、肥後相良氏(ひご さがらうじ)など周辺の九州小名(きゅうしゅう しょうみょう=九州で名のとどろかぬ武士)に出陣(しゅつじん=戦場へ向かうこと)を命じました。7月、太泥国(たいに こく=パタニ大国。現在のタイ王国パッターニー県辺り。)へ書翰(しょかん=手紙)を送りました。8月14日、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)のもとへ参内しました。この時、朝廷(ちょうてい=天皇が政治を行うところ)は参内した家康を秀吉と変わらぬように扱い、天下人として認めました。9月27日、摂津大坂城の反徳川勢力(はん とくがわ せいりょく)を排除(はいじょ)し、大坂城西の丸(にしのまる)に入りました。
以上所説あり。