ここでは、1594年、山城伏見城の建築から、1596年、正二位(しょうにい=位階の一。従一位の下、従二位の上。)内大臣(ないだいじん=官職の一。)になるまでを勉強します。
1594年(文禄(ぶんろく)三年)3月、豊臣政権(とよとみ せいけん)から課せられた山城伏見城(やましろ ふしみ じょう=現在の京都市伏見区桃山にあった城)の普請(ふしん=建築)を務めました。これ以降、家康は京都や伏見に滞在することが多くなり、豊臣政権の一員として秀吉に従い畿内(きない=摂津・山城・大和・河内・和泉(せっつ・やましろ・やまと・かわち・いずみ)の令制5か国)で活躍(かつやく)していきました。9月21日、秀吉(ひでよし)から「羽柴江戸大納言(はしば えど だいなごん=官職の一)」として、伊勢国(いせのくに=現在の和歌山県中部・東部)内において3518石(こく)5斗(と)の所領(しょりょう=領地)を与えられました。
1595年(文禄四年)「羽柴武蔵大納言(はしば むさし だいなごん=官職の一)家康」として、秀頼(ひでより)への忠誠(ちゅうせい=忠実で正直な心)と秀吉が定めた法や決まりの遵守(じゅんしゅ=きまりなど、それを守ること)を誓約(せいやく=必ず守ると約束すること)した起請文(きしょうもん=古文書)を提出しました。8月3日、宇喜多秀家・上杉景勝・前田利家・毛利輝元・小早川隆景(うきた ひでいえ・うえすぎ かげかつ・まえだ としいえ・もうり てるもと・こばやかわ たかかげ)との連名(れんめい=名前を並べて書くこと)により、御掟・御掟追加(おんおきて・おんおきて ついか=秀吉がかした法令。御掟が5条と御掟追加が9条。)を出しました。9月17日、嫡男(ちゃくなん=あとつぎ)の秀忠(ひでただ)と秀吉養女(ようじょ)の江(ごう=淀殿(よどどの=浅井茶々(あざい ちゃちゃ))の妹)が結婚しました。
1596年(文禄五年)5月11日、正二位(しょうにい=位階の一。従一位の下、従二位の上。)内大臣(ないだいじん=官職の一。)となりました。5月13日、秀吉・秀頼父子に従い、牛車(ぎゅうしゃ)にて参内(さんだい=宮中に参上)しました。9月1日、秀吉が明国(みんこく=中国の歴代王朝の一つ)使節(しせつ=明からの使者)と摂津大坂城(せっつ おおさか じょう)で会い、日本国王(明(みん)と会ったとき使用した称号(しょうごう=呼び名))の冊封(さくほう=外交関係の一)を受けました。家康は右都督(うととく=明朝の官職の一)となりました。後日、講和交渉(交戦国が、互いに協定を結んで戦争をやめ、平和を回復することのかけあい)は決裂しました。
以上所説あり。