徳川家康(8/12)(1591年~1593年)

ここでは、1591年、嫡男(ちゃくなん=家督を相続する者、基本的には正妻が生んだ長男)秀忠(ひでただ))が元服(げんぶく=男子が成人に達したことことを示すための儀式)してから、1593年、豊臣秀頼(とよとみ ひでより=秀吉の三男)が誕生するまでを勉強します。

1591年(天正(てんしょう)十九年)正月11日、陸奥国(むつのくに=現在の青森県、秋田県の北東部、岩手県、宮城県、福島県)の政情解決(せいじょう かいけつ=政治のなりゆきが解決)のために出陣(しゅつじん=戦争に出向くこと)するが、途上(目的の場所に行く途中)で解決したとの報(ほう=しらせ)が入り、正月13日、帰国しました。同月、嫡男(ちゃくなん=家督を相続する者、基本的には正妻が生んだ長男)の秀忠(ひでただ)が元服(げんぶく=男子が成人に達したことことを示すための儀式)・公家成(くげなり=侍従(じじゅう=君主のそばに仕えること)以上、公卿(くぎょう=太政大臣・左大臣・右大臣と大納言・中納言・参議および三位以上の官人)未満。)を遂(と)げました。閏正月3日~3月21日、上洛(じょうらく=京都へ行く)し、伊達政宗(だて まさむね)の処遇(しょぐう=扱い方)問題に関わりました。この間、徳川家中に「国替(くにがえ=大名の領地を移しかえること)」の噂(うわさ)が起こりました。5月、徳川関東領国における家臣に所領給与(領土を与えること)を行いました。7月19日~10月29日、陸奥国へ出陣し、伊達領国の整備などにあたりました。11月、徳川関東領国内の寺社領(寺社の領地)の保証(間違いがない、大丈夫であると認め、責任をもつこと)を行いました。

1592年(天正二十年)2月2日、江戸を発(た)ち、京都を経て4月中に肥前名護屋(ひぜん なごや=現在の佐賀県唐津市鎮西町名護屋)へ赴(おもむ=ある場所・方角に向かって行く)きました。6月2日、徳川家康・前田利家(まえだ としいえ)の諫言(かんげん=いさめること。忠告。)により、秀吉の渡航(とこう=外国へ出かけること)が延期になりました。7月末~11月1日、秀吉不在中に、肥前名護屋での留守居(るすい=留守)を前田利家とともに務めました。9月9日、嫡男の秀忠が従三位(じゅさんみ=位階の一。正三位の下、正四位の上)権中納言(ごんのだいなごん=中納言の定員に空きがない場合の職名)となりました。

1593年(文禄(ぶんろく)二年)3月、渡海(船で海を渡ること)の計画がなされましたが、実現はできませんでした。5月、講和交渉(交戦国どうしが話し合い、取り決めを結び、戦争をやめること)のため、明国(みんこく=中国の歴代王朝の一つである)使節(日本に派遣されてくる人)が肥前名護屋に来ました。前田利家とともに接待役を務めました。8月3日、豊臣秀頼(とよとみ ひでより=秀吉の三男)が誕生しました。8月29日、肥前名護屋から大坂へ帰還しました。10月26日、江戸へ帰国しました。

以上所説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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