徳川家康(7/12)(1587年~1590年)

ここでは、秀吉が九州攻めを行った年(1587年)から、家康が関東に移封(いほう=他の領地へ移すこと)する年(1590年)までを勉強します。

1587年(天正(てんしょう)十五年)3月18日、信濃国(しなののくに=現在の長野県)衆真田昌幸(さなだ まさゆき)と小笠原貞慶(おがさわら さだよし)が駿河駿府城(するが すんぷ じょう=現在の静岡県静岡市葵区にあった城)の家康のもとに出頭(出向くこと)し、与力小名(よりき しょうみょう=秀吉の直臣で家康のもとで従事すること)としての立場を確認しました。5月、秀吉は九州攻めを行いました。8月8日、従二位(じゅにい=位階の一。正二位の下、正三位の上)権大納言(ごんのだいなごん=大納言の定員に空きがない場合の職名)となりました。この年、領国(りょうごく=支配する国)財政(国がその任務を遂行するために営む経済行動)を補塡(ほてん=足りない所や欠けた所などをおぎないうめること)するための追加徴税(ちょうぜい=税金を取り立てること)として五十分一役(ごじゅうぶんのいちやく=物品に課す税)の賦課(ふか=税金などを割り当てて負担させること)が始まりました。

1588年(天正十六年)4月、羽柴秀吉(はしば ひでよし)が後陽成天皇(ごようぜいてんのう)を山城聚楽第(やましろ じゅらくだい=現在の京都府京都市上京区一条堀川にあった城)に行幸(ぎょうこう=天皇が外出すること)させ、家康はお伴につくきました。また、その直前に、「清華成(せいがなり=清華家(主に三位以上の位階の家)並(なみ)の家格(かかく=家柄))」を果たしました。5月21日、北条氏政・氏直(ほうじょう うじまさ・うじなお)父子に対して、豊臣政権(とよとみ せいけん)への臣従(しんじょう=君主につき従うこと)を求める「最後通告(さいご つうこく=最終的な要求を文書で提示することで交渉の終わりをしさし、それを相手国が受け入れなければ交渉を打ち切る意思を表明すること)」を行いました。8月22日、相模北条氏(さがみ ほうじょう し)が豊臣政権へ臣従の意を示しました。

1589年(天正十七年)2月「国家」改革の事業として、本領国検地が始まりました。7月7日、七カ条定書の配布が始まりました。

1590年(天正十八年)正月3日、三男で嫡男(ちゃくなん)の長丸(=のちの徳川秀忠)を上洛させました。2月10日、豊臣政権による相模北条氏の軍事征伐に従い出陣しました。3月、小田原合戦が始まりました。7月5日、北条氏直が降伏し、相模北条氏は滅亡しました。7月、家康は関東に移封(いほう=他の領地へ移すこと)しました。豊臣政権が関東・奥羽(おうう=現在の青森・秋田・岩手・山形・宮城・福島の6県)仕置(刑罰を科すこと)を行い、秀吉は天下統一を遂げました。

以上所説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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