ここでは、三河(みかわ=現在の愛知県東部)吉田・田原(よしだ・たはら)両城を攻略する年(1565)から、上杉謙信(うえすぎ けんしん)と同盟を結ぶ(1570年)まで勉強します。
1565年(永禄(えいろく)八月)3月ころ、三河(みかわ=現在の愛知県東部)吉田・田原(よしだ・たはら)両城を攻略しました。5月19日、室町幕府将軍足利義輝(あしかが よしてる)が、三好義継(みよし よしつぐ)や松永久通(まつなが ひさみち)に殺害されました(永禄の政変(せいへん=政権の突発的な移動))。
1566年(永禄九年)5月、牛久保牧野氏(うしくぼ・まきの し)が従属(じゅうぞく=他の者の下につき、従うこと)し、三河国を平定(へいてい=敵や賊(ぞく)を討ち平らげること)しました。12月29日、徳川改姓し、従五位下(じゅごいげ=位階の一。従五位上の下、正六位上の上)三河守(みかわのかみ)に叙位(位階を授けること)・任官(官職に就くこと)しました。
1567年(永禄十年)5月、嫡男の信康(のぶやす)と織田信長(おだ のぶなが)の娘五徳(おごとく)の婚約が成立しました。
1568年(永禄十一年)正月11月、左京大夫(さきょうのだいぶ=左京職(さきょうしき)の長官)に任官しまいた。10月18日、足利義昭(あしかが よしあき)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=幕府の主宰者(上に立って物事を行うこと)の職名)となりました(室町幕府の再興)。12月、武田信玄(たけだ しんげん)が今川領国(いまがわりょうこく=)の駿河国(するがのくに=現在の静岡県中部)、徳川家康が近江国(おうみのくに=現在の滋賀県)へ侵攻を開始しました。
1569年(永禄十二年)5月15日、今川氏真(いまがわ うじざね)が籠(こ)もる近江懸川城(おうみ かけがわ じょう=現在の静岡県掛川市掛川にあった城)を開城(降伏して城を敵に明け渡すこと)させました。これにより駿河今川氏(するが いまがわ し)が滅亡(めつぼう)し、近江国(おうみのくに=現在の滋賀県)が徳川領国となりました。この直後から「福徳(ふくとく)」印判(いんばん=印)の使用が開始されました。
1570年(元亀(げんき)年)6月、遠江浜松城(とおとうみ はままつ じょう=現在の静岡県浜松市中区にあった城)を築城し、9月に遠江浜松城に入城しました。10月、上杉謙信(うえすぎ けんしん)と同盟を結びました。
以上所説あり。