島津義弘(7/7)(1598年~1619年)

ここでは、京都伏見(きょうと ふしみ)で、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が亡くなる年(1598年)から、島津義弘が、加治木館にて没っする年(1619年)までを勉強します。

1598年(慶長(けいちょう)三年)8月、京都伏見(きょうと ふしみ)で、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が亡くなりました。10月、義弘は、朝鮮(ちょうせん=現在の朝鮮半島)泗川城の戦い(さちょんそん の たたかい)に大勝しました。12月、義弘は、朝鮮より帰国しました

1599年(慶長四年)正月、義弘は、正四位下(しょうしいのげ=位階の一つ。正四位上の下、従四位上の上。)・参議(さんぎ=令に定められた以外の官職・官庁の一つ)に叙任(じょにん=位階を授け、官職に任ずること)され、惟新(いしん)と号(ごう=名づける)しました。3月、忠恒(ただつね)は、京都伏見に伊集院忠棟(いじゅういん ただむね)を討ちました(うちました=敵を攻めて滅ぼす)。6月、義弘は、紀伊国(きいのくに=現在の和歌山県と三重県の一部)高野山(こうやさん=現在の和歌山県伊都郡高野町)に朝鮮出兵(しゅっぺい=軍隊を派遣すること)の敵味方の戦没者(せんぼつしゃ=戦争の犠牲(災難などで、死んだり負傷したりすること)により亡くなった人)のための供養塔(くようとう=死者や祖先の供養のために建てる石塔(せきとう))を立てました。

1600年(慶長五年)9月15日、義弘は、関ヶ原の合戦(せきがはら の かっせん)で「敵中突破(てきちゅうとっぱ=敵地の中をつき破ること)を敢行しました。このとき、義弘の甥(おい)・豊久(とよひさ)が身代わりとなって討死にしました。帰国後、義弘は、桜島(さくらじま=現在の鹿児島県鹿児島市)に一時蟄居(いちじ ちっきょ=短い時間、公家・武士に科された監禁刑)しました。

1601年(慶長六年)義弘は、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)を大隅国(おおすみのくに)の牛根(うしね=現在の鹿児島県垂水市(たるみずし))に匿いました(かくまいました)。

1602年(慶長七年)4月、義弘は、嗣子(しし=あととり)・忠恒(ただつね)に家督(かとく)を譲りました(ゆずりました)。この年、薩摩国(さつまのくに)に鹿児島城(かごしま じょう=鶴丸城(つるまる じょう))を築城(ちくじょう=城を築くこと)しました。

1606年(慶長十一年)義弘、居城を大隅国の平松城(ひらまつ じょう=現在の鹿児島県姶良市平松字上星原にあった城)に移しました。

1607年(慶長十二年)義弘、居城を大隅国の加治木館(かじき やかた=現在の鹿児島県姶良市加治木町反土にあった館)に移しました。

1609年(慶長十四年)島津氏、琉球(りゅうきゅう=現在の沖縄県)征討(せいとう=反逆する者や服属しない者をせめうつこと)を行いました。

1611年(慶長十六年)正月、兄・義久(よしひさ)は、大隅国の国分城(こくぶ じょう=鹿児島県霧島市国分中央にあった城)にて没しました(ぼっしました)。

1616年(元和(げんな)二年)6月、義弘の孫(まご)・光久(みつひさ)が生まれました。

1619年(元和五年)7月21日、義弘は、加治木館にて没しました。享年95年でした。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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