ここでは、島津義弘(しまづ よしひろ)の次男・久保(ひさやす)、加久藤城(かくとう じょう=現在の宮崎県えびの市加久藤にあった平山城)に生れました年から、本能寺の変および、義弘の五男・忠清(ただきよ)が生まれました年(1582年)までを勉強します。
1573年(天正(てんしょう)元年)義弘の次男・久保(ひさやす)、加久藤城(かくとう じょう=現在の宮崎県えびの市加久藤にあった平山城)に生れました。
1576年(天正四年)8月、島津氏、大軍(たいぐん)をもって日向国(ひゅうがのくに=現在の宮崎県)の高原城(たかはる じょう=現在の宮崎県西諸県郡高原町にあった平山城)を降(くだ)しました。11日、義弘、日向国の飯野城(いいの じょう=現在の宮崎県えびの市飯野にあった城)主になりました。11月、義弘の三男・忠恒(ただつね=のちの家久(いえひさ))が加久藤城に生れました。同月、義弘の長男(ちゃくなん)・鶴久丸(つるひさまる)が早世(そうせい=若くて死ぬこと)しました。
1577年(天正五年)12月、伊東義祐(いとう よしすけ)、日向国都於郡城(ひゅうがのくに とのこおり じょう=現在の宮崎県西都市にある山城)が陥落(かんらく=攻め落とす)したため、豊後国(ぶんごのくに=現在の大分県の大半)に逃げました。
1578年(天正六年)10月、大友(おおとも)・伊東連合軍(いとう れんごうぐん)日向国の高城(たか じょう=現在の宮崎県児湯郡木城町にあった日本の城)を攻めました。11月、島津氏、耳川の戦い(みみかわ の たたかい)で大友・伊東連合軍を撃破(げきは=敵を攻撃して負かすこと)し、豊後国(ぶんごのくに)の大友宗麟(おおとも そうりん)を敗走(はいそう=戦いに敗れて逃げ走ること)させました。
1580年(天正八年)義弘の四男・万千代丸(まんちよまる)が生まれました。9月、織田信長(おだの ぶなが)、薩摩国(さつまのくに)と豊後国の和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)を勧告(かんこく=ある事をするように説きすすめること)しました。
1582年(天正十年)6月、織田信長、京都本能寺(きょうと ほんのうじ)で家臣(かしん=)・明智光秀(あけち みつひで)の謀叛(むほん=)によって自害しました。この年、義弘の五男・忠清(ただきよ)が生まれました。
以上諸説あり。