島津義弘(3/7)(1562年~1572年)

ここでは、義弘の叔父(おじ)・尚久(なおひさ)が亡くなる年(1562年)から、日向国の木崎原(きざきばる=現在の宮崎県えびの市)の戦いで伊藤義祐(いとう よしすけ)の大軍を破った年(1572年)までを勉強します。

1562年(永禄(えいろく)五年)3月、義弘の叔父(おじ)・尚久(なおひさ)が病没しました。義弘は日向国飫肥(ひゅうがのくに おび=現在の宮崎県南部日南市中央部)より帰国しました。

1564年(永禄七年)11日、義弘、日向国の飯野城(いいの じょう=現在の宮崎県えびの市飯野にあった城)主になりました。

1566年(永禄九年)2月、兄・義久(よしひさ)が島津本宗家第十六代当主(しまづほん そうけだい じゅうろくだい とうしゅ)を継ぎました。10月、義弘、日向国(ひゅうがのくに=現在の宮崎県)の三ッ山城(みつやま じょう=現在の宮崎県小林市細野にあった城。三ノ山城(みのやま じょう)。)の戦いで重症(じゅうしょう)を負(お)いました。

1567年(永禄十年)11月、義弘、薩摩国の馬越城(さつまのくに の まごし じょう=現在の鹿児島県伊佐市菱刈前目)を攻略(こうりゃく)しました。

1568年(永禄十一年)正月、島津氏、薩摩国の堂崎(どうざき)の戦いで、菱刈・相良連合軍(ひしかり・さがら れんごうぐん)に苦戦(くせん)しました。8月、島津氏、日向国の飯野桶平(いいの おけひら)に伊藤勢(いとう ぜい)を奇襲(きしゅう=)しました。12月、義弘の祖父・忠良(ただよし=日新斎(じっしんさい))薩摩国の加世田(かせだ=鹿児島県の薩摩半島西岸)に没しました(亡くなりました)。

1569年(永禄十二年)9月、島津氏、薩摩国の大口城を攻略しました。この時、義弘の長男・鶴寿丸(つるひさまる)が日向国の加久籐城(かくとう じょう=現在の宮崎県えびの市加久藤にあった城)で生まれました。

1571年(元亀二年)6月、義弘の父・貴久、加世田で没しました。

1572年(元亀三年)5月、義弘、日向国の木崎原(きざきばる=現在の宮崎県えびの市)の戦いで伊藤義祐(いとう よしすけ)の大軍を破りました。義弘、六地蔵塔(ろくじぞうとう=戦国時代に盛んに造られた石塔で、側面に6体の地蔵像が彫られているという特徴がある)を建てて戦没者(せんぼつしゃ=戦争の犠牲により亡くなった人)を供養(くよう=死者の霊(れい)に供え物(そなえもの=神仏の前に供えるもの)をして、死者の冥福(めいふく=死後の幸福)を祈ること)しました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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