島津義弘(2/7)(1554年~1561年)

島津義弘(1554年~1561年)

ここでは、島津義弘(しまづ よしひろ)、大隅国(おおすみのくに=現在の鹿児島県東部)の岩剣城(いわつるぎ)に渋谷・蒲生連合軍(しぶや・かもう れんごうぐん)を攻め、初陣(うえいじん=)を飾る年(1554年)から、義弘の叔父(おじ)・忠将(ただまさ)が大隅国の廻城(めぐり じょう=鹿児島県霧島市福山町福山前平にあった城)の戦いで戦死する(1561年)までを勉強します。

1554年(天文(てんぶん)二十三年)10月、島津義弘、大隅国(おおすみのくに=現在の鹿児島県東部)の岩剣城(いわつるぎ=現在の鹿児島県姶良市平松にあった城)に渋谷・蒲生連合軍(しぶや・かもうれんごうぐん)を攻め、初陣(初めて戦いに出ること)を飾りました。義弘、岩剣城主となりました。この年、義弘の長女・御屋地(おやぢ)が生まれました。

1555年(弘治(こうじ)元年)4月、島津氏、大隅国(おおすみのくに=現在の鹿児島県の大隅半島と屋久島,種子島,奄美大島などを含む西海道の一国)の帖佐城(ちょうさ じょう=鹿児島県姶良市にあった城)を攻略(敵を攻めて勝利を収めること)しました。

1557年(弘治三年)4月、島津氏、大隅国の蒲生城(かもう じょう=竜ヶ城(りゅうがじょう=現在の鹿児島県姶良市蒲生町久末))を陥落(攻めおとされること)しました。

1560年(永禄(えいろく)三年)3月、義弘、豊州家(ほうしゅうけ)の島津忠親(しまづ ただちか)の養子となり、日向国(ひゅうがのくに=現在の宮崎県と鹿児島県の一部)の飫肥(おび=宮崎県南部日南市中央部にある地区)の警固(けいご=警戒して守りかためること)に当たりました。

1561年(永禄四年)7月、義弘の叔父(おじ)・忠将(ただまさ)が大隅国の廻城(めぐり じょう=鹿児島県霧島市福山町福山前平にあった城)の戦いで戦死しました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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