宮本武蔵(4/4)(1618年~1645年)

ここでは、1618年~宮本武蔵(みやもと むさし)が亡くなる1645年までを勉強します。

1618年(元和(げんな)四年)~1633年(寛永(かんえい)十年)、摂津街道(せっつ かいどう)で三木之助(みきのすけ)を拾い、養子(ようし=血縁関係とは無関係に人為的に親子関係を発生させること)として宮本の姓(せい=みょうじ)を名乗らせました。東軍流三宅軍太夫(とうぐんりゅうみやけぐんだゆう)と試合しました。姫路城下(ひめじ じょうか=現在の兵庫県姫路市にある城下)にて仮住まいしました。藩中(はんちゅう=その藩のうち)で知己(ちき=親友)を得て、寺院(じいん=寺)の造庭(ぞうてい=庭園などの空間を造ること)、城下の縄張り(なわばり=占有している土地)などに従事(じゅうじ=その仕事にたずわること)しました。また、伊織(いおり)を養子としました。尾張(おわり=現在の愛知県西部)では柳生兵庫(やぎゅう ひょうご)と出会いました。また、松平(まつだいら)出羽守(でわのかみ=出羽国(現在の山形県と秋田県の大部分)を納める役職)家中(かちゅう=屋敷の中)において剣法(けんぽう=刀剣(とうけん=かたなや、つるぎ)で戦う武術)を披露(ひろう=皆に見せること)しました。

1634年(寛永(かんえい)十一年)、小倉(こくら=現在の福岡県北九州市小倉北区と小倉南区)に来て、小笠原忠真(おがさわら ただざね)の客分(きゃくぶん=客としてたいぐうを受けること)となりました。

1637年(寛永十四年)、島原の乱(しまばらのらん)において、小笠原忠真軍に軍艦(ぐんかん)として、伊織とともに出陣(しゅつじん=戦争に出向くこと)しました。伊織はのちに、家老に累進(かろうに るいしん=地位が次々に進み、家臣の長になること)しました。

1640年(寛永十七年)、細川忠利(ほそかわ ただとし)の知遇(ちぐう=人格・能力などを認められて、厚くたいぐうされること)を得て、客分として熊本千葉城跡(くまもと ちば じょうあと=現在の熊本県熊本市中央区千葉城町(くまもとけん くまもとし ちゅうおうく ちばじょうちょう))に住しました。

1641年(寛永十八年)、二月、「兵法三十五箇条(ひょうほうさんじゅうごかじょう)」を完成させ、春山和尚(しゅんざん おしょう)と交誼(こうぎ=友人としての親しいつきあい)しました。

1643年(寛永二十年)、霊巌洞(れいがんどう=熊本県熊本市西区松尾町(くまもとけん くまもとし にしく まつおまち)の雲巌禅寺(うんがんぜんじ)の裏山にある洞窟(どうくつ))にしばしば籠(こも)りました。十月、「五輪書(ごりんのしょ=戦争などにおいて兵の用い方を説いた書物)」の執筆(しっぴつ=文章を書くこと)に入りました。

1645年(正保(しょうほう)二年)、「独行道(どっこうどう=自身の生き方を21か条に記した書)」を完成させ、「五輪書」も完成させ、五月十九日、62歳で亡くなりました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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