ここでは、宮本武蔵(みやもと むさし)の弟子・落合忠右衛門(おちあい ただえもん)に「兵道鏡(ひょうどうかがみ=宮本武蔵の剣術書)」を与えた年(1605年)~巌流島(がんりゅうじま)の佐々木小次郎(ささき こじろう)との戦い(1612年)~大坂夏の陣(1615年)までを勉強します。
1605年(慶長(けいちょう)十年)、宮本武蔵は「兵道鏡(ひょうどうかがみ=宮本武蔵の剣術書)」を完成させ、落合忠右衛門(おちあい ただえもん)に与えました(あたえました)。
1606年(慶長十一年)~1611年(慶長十六年)
伊賀(いが=現在の三重県北西部)で宍戸某(ししど なにがし)と仕合(しあい=力の優劣(ゆうれつ=すぐれていることと、おとっていること)を競い合うこと)して勝ちました。また、江戸(えど)にて、棒術(ぼうじゅつ=日本武術において長い棒を武器とする術)の夢想権之助(むそう ごんのすけ)に勝ち、柳生流(やぎゅうりゅう=剣術流派(刀剣(日本刀)で戦う武術)で新陰流(しんかげりゅう=上泉信綱(かみいずみ のぶつな)により1560年代に成立した剣術の流派)に連なる柳生新陰流(やぎゅう しんかげりゅう=柳生宗厳(やぎゅう むねよし)以降の新陰流の俗称(ぞくしょう=世間で通っている、正式でない呼び名)のこと)の大瀬戸隼人(おおせど はやと)と辻風典馬(つじかぜ てんま)を倒しました。下総行徳在(しもうさぎょうとくざい=現在の千葉県市川市本行徳(ちばけん いちかわし ほんぎょうとく))の開墾(かいこん=山野を切り開いて新しく田畑にすること)しました。
1612年(慶長十七年)四月、小倉舟島(こくらふなしま=現在の山口県下関市大字彦島字船島(やまぐちけん しものせきし おおあざひこしま あざふなしま))にて、巌流佐々木小次郎(がんりゅう ささき こじろう)と仕合して勝ちました。この戦いののち、小倉舟島は、巌流島(がんりゅうじま)と呼ばれるようになりました。
1614年(慶長十九年)大坂冬の陣(おおさか ふゆのじん)に参戦(さんせん=戦争に参加すること)しました。
1615年(元和(げんな)元年)大坂夏の陣(おおさか なつのじん)に参戦しました。大坂落城(おおさか らくじょう)で、徳川(とくがわ)の探索(たんさく=罪人の行方をさがし調べること)を逃れて地下に潜行(せんこう=人知れずひそかに行くこと)し、以後、諸国を回りました。
以上諸説あり。