ここでは、1588年に、北条氏政(ほうじょう うじまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1588年(天正(てんしょう)十六年)2月、宿老(しゅくろう=重臣(重要な職務にある臣下))笠原康明(かさはら やすあき)を上洛(じょうらく=京都に入ること)させ、羽柴秀吉(はしば ひでよし)と和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)交渉(こうしょう=ある事を実現するために、当事者と話し合うこと)しました。3月、秀吉との和睦が成立しました。同月、氏直(うじなお)が、常陸(ひたち=現在の茨城(いばらき)の大部分)に出陣(しゅつじん=戦争に向かうこと)しました。4月、小田領に侵攻(しんこう=他の領土をせめこむこと)しました。同月、筑波山(つくばさん=現在の茨城県つくば市)に侵攻しました。同月、弟・氏邦(うじくに)の宿老・猪俣邦憲(いのまた くにのり)は、権現山城(ごんげんやま じょう=現在の 神奈川県横浜市神奈川区幸ケ谷(かながわけん よこはまし かながわく こうがや)にあった城)を、むりに取りあげました。同月、羽柴秀吉から従属(じゅうぞく=他のものの下に、つき従うこと)のための条件を示されました。5月、徳川家康(とくがわ いえやす)から秀吉への従属を勧告(かんこく=ある事をするように説きすすめること)されました。閏5月、秀吉への従属を表明しました。8月、弟・氏規(うじのり)、秀吉への御礼(おれい=感謝の気持を表すこと)言上(ごんじょう=目上の人に申し上げること)の使者として上洛しました。同月、氏規、秀吉に拝謁(はいえつ=身分の高い人に面会することをへりくだっていう語)しました。この頃から「又御隠居」として政務(せいむ=政治上の事務)に関与(かんよ=たずさわること)しなくなりました。同月、長尾顕長(ながお あきなが)と由良国繁(ゆら くにしげ)が離叛(りはん=従っていたものなどが、そむきはなれること)しました。9月、氏邦、沼田領(ぬまたりょう=現在の群馬県沼田市西倉内町(にしくらうちまち))に侵攻しました。9月、氏邦、阿曾城(あそ じょう=群馬県利根郡昭和村橡久保(ぐんまけん しょうわむら しょうわむら とちくぼ)にあった城)を攻略(こうりゃく=敵陣や敵地を攻め取ること)しました。11月、秀吉の上使(幕府・藩などから上意(じょうい=命令)を伝えるために派遣(はけん=ある使命をもっておもむかせること)された使い)、小田原城(おだわら じょう=現在の神奈川県小田原市にあった城)に下向(げこう=都から地方へ行くこと)しました。
以上諸説あり。