北条氏政(16/20)(1584年~1585年)

ここでは、1584年~1585年に、北条氏政(ほうじょう うじまさ)が、たずさわったことを勉強します。

1584年(天正(てんしょう)十二年)3月、大戸城(おおどじょう=現在の千葉県君津市(ちばけん きみつし)にあった城)をむりに取り上げました。4月、氏政・氏直(うじなお)、下野(しもつけ=現在の栃木県(とちぎけん))に進撃(しんげき=前進して敵を攻撃すること)しました。5月、佐竹義重(さたけ よししげ)らと藤岡(ふじおか=現在の栃木市藤岡)・沼尻(ぬまじり=現在の栃木市藤岡)で対陣(たいじん=相手と向かい合って陣をとること。藤岡・沼尻合戦)しました。7月、藤岡から退陣(たいじん=戦闘に際して陣地を後方へ下げること)しました。9月、徳川家康(とくがわ いえやす)への援軍(えんぐん=救援(きゅうえん)の軍隊)を選定(せんてい=多くの中から目的・条件などに合うものを選び定めること)しました。12月、氏直、家臣(かしん=家来)に上野(こうずけ=現在の群馬県(ぐんまけん))出陣(しゅつじん=戦場へ向かうこと)の準備を命令しました。12月、氏照(うじてる)、館林領(たてばやしりょう=現在の群馬県館林市)に向けて進軍(軍を進めること)しました。同月、金山城(かなやまじょう=現在の群馬県太田市(おおたし)にあった城)と館林城(たてばやしじょう=現在の群馬県館林市にあった城)が降伏(こうふく=戦いに負けたことを認めて、相手に従うこと)しました。この年、七男・鶴千代(つるちよ)が生まれました。

1585年(天正十三年)1月、由良国繁(ゆら くにしげ)と長尾顕長(ながお あきなが)が従属(じゅうぞく=他のものの下に、つき従うこと)しました。4月、岩付衆(いわつき しゅう=現在の埼玉県さいたま市岩槻区(さいたまけん さいたまし いわつきく))の「着到帳(ちゃくとうちょう=急事に出陣した諸将の名とその手勢を記入した、奉行所側の帳簿)」を規定(きてい=物事を一定の形に定めること)しました。同月、氏直が小山領(おやまりょう=現在の東京都(とうきょうと)・埼玉県・神奈川県(かながわけん)の一部)に進軍しました。5月、氏直、厩橋領(まやばしじょう=現在の群馬県前橋市(ぐんまけん まえばしし)にあった城)に進軍しました。7月、氏房(うじふさ)の婚姻(こんいん=結婚すること)に際し、岩付衆(うわつきしゅう=埼玉県さいたま市岩槻区(いわつきく)に十七日に江戸(えど=現在の東京都)参陣(さんじん=戦いに加わる)を命令しました。8月、氏直、下野(しもつけ=現在の栃木県)に進軍しました。閏8月、氏直、皆川領(みながわりょう=現在の栃木県栃木市皆川城内町(みながわじょうないまち))に侵攻(しんこう=他の領土を攻めおかすこと)しました。同月、氏直、沼田領(ぬまたりょう=現在の群馬県沼田市西倉内町(にしくらうちまち))に侵攻しました。11月、氏直、佐倉領(さくらりょう=現在の千葉県佐倉市(ちばけん さくらし))に進軍しました。12月、千葉家(ちばけ)宿老(しゅくろう=経験がゆたかな老人)原親幹(はら ちかみき)を屈服(くっぷく=相手の権力や力などに負けて服従すること)させました。同月、氏直、逆川(さかさがわ)で結城家(ゆうき け)と対戦しました。同月、壬生義雄(みぶ よしたけ)が従属しました。同月、氏直、下野(しもつけ=栃木県)から帰陣(きじん=自分のじん営に帰ること)しました。この年、五男・直重(なおしげ)が、千葉邦胤(ちば くにたね)の婿養子(むこようし=養子縁組によって、むことなった人)になりました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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