ここでは、1578年~1579年までに、北条氏政(ほうじょう うじまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1578年(天正(てんしょう)六年)2月、芦名盛隆(あしな もりたか)と起請文(きしょうもん=神仏への誓いを記した文書)を交換(こうかん=互いにやり取りすること)しました。5月、結城城(ゆうきじょう=現在の茨城県結城市結城(いばらきけん ゆうきし ゆうき)にあった城)と山川城(やまかわじょう=現在の茨城県結城市上山川(かみやまかわ)にあった城)を攻撃(こうげき=進んで敵をうつこと)しました。5月末、小川台(おがわだい)在陣(ざいじん=陣営(じんえい=戦場で軍勢が集結して待機している所)の中に居る)の佐竹義重(さたけ よししげ)らと対陣(向かい合って陣(じん=軍隊を配置して備えること)を構えること)しました(小川台合戦)。7月、結城領(現在の茨城県結城市)から退陣(たいじん=戦闘(せんとう)に際して陣地(じんち=戦闘のために部隊を配置してある所)を後方へ下げること)しました。同月、上野(こうずけ=現在の群馬県(ぐんまけん))にむけて進軍しました。同月、沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市にあった城)を攻略(こうりゃく=敵陣を攻め取ること)しました。8月、毛利北条芳林らが、坂戸山城(さかどやま じょう=新潟県南魚沼市(にいがたけん みなみうおぬまし)にあった城)を攻略しました。同月、氏照(うじてる)と氏邦(うじくに)が、沼田城着陣(ちゃくじん=陣地に到着すること)しました。同月、白井領(しろい りょう=現在の群馬県渋川市上白井)に進軍しました。9月、氏邦、越後(えちご=佐渡ヶ島(にいがたけん)を除く新潟県)に進軍しました。12月、氏邦、越後から帰陣しました。
1579年(天正七年)1月、氏照、徳川家康(とくがわ いえやす)と通交(互いに仲よくし、交わりを結ぶこと)しました。3月、次女・竜寿院殿(里見義頼の妻)が亡くなりました。同月、上杉景虎(うえすぎ かげとら)がほろびましました。5月、由良国繁(ゆら くにしげ)に旧上杉方所領を充行(あておこない=所領を与えること)ました。同月、河田重親(かわだ しげちか)に不動山城(ふどうやま じょう=現在の新潟県糸魚川市(にいがたけん いといがわし))などを充行ました。9月、武田家(たけだけ)との対戦のため出陣(しゅつじん=戦争に出向くこと)を命じました。同月、徳川家康からの使者(命令や依頼を受けて使いに行く人)が浜松城(はままつ じょう=現在の静岡県浜松市中区にあった城)に帰還(きかん=遠方から帰ってくること)しました。同月、織田信長(おだ のぶなが)の本拠安土城(あづちじょう=現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦(しがけん おうみはちまんし あづちちょう しもといら)にあった城)に到着(とうちゃく=目的地などに行きつくこと)しました。同月、伊豆(いず=静岡県(しずおかけん)東部)に出陣しました。同月、武田家と交戦(こうせん=戦いをまじえること)開始しました。11月、伊豆から退陣しました。
以上諸説あり。