ここでは、1570年~1572年までに、北条氏政(ほうじょう うじまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1570年(元亀(げんき)元年)3月、弟・景虎(かげとら)は、上杉輝虎(うえすぎ てるとら=のちの上杉謙信(うえすぎ けんしん))の養子となりました。4月、早川殿(はやかわどの)、大平城(おおだいら じょう=現在の静岡県浜松市浜北区大平(しずおかけん はままつし はまきたく おいだいら)にあった城)から早川(はやかわ=現在の神奈川県小田原市(かながわけん おだわらし))に移りました。6月、平沢政実(ひらさわ まさざね)が離叛(りはん=従っていたものなどが、そむきはなれること)しました。同月、足利義氏(あしかが よしうじ)が、古河城(こが じょう=現在の茨城県古河市(いばらきけん こがし)にあった城)に入部(にゅうぶ=領主・国司などが、その領地・任地に初めてはいること)しました。8月、氏康(うじやす=父)、重態(じゅうたい=病気・けがの状態が重く危険なこと)になりました。
1571年(元亀二年)1月、深沢城(ふかさわ じょう=現在の静岡県御殿場市にあった城)が落城しました。4月、氏康、上杉謙信(うえすぎ けんしん)に武田家(たけだけ)との和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)の噂(うわさ=そこにいない人を話題にしてあれこれ話すこと)などについて弁明しました。7月、氏康、再び重態になりました。10月、氏康が亡くなりました。11月、武田信玄(たけだ しんげん)と同盟しました。同月、北条康成(ほうじょう やすしげ)、家督(かとく=あととり)を継(つ)ぎました。12月、上杉謙信と手切れ(てぎれ=敵対関係に入ること)になりました。
1572年(元亀三年)1月、平山城・興国寺城(こうこくじ じょう=現在の静岡県沼津市根古屋(しずおかけん ぬまずし ねごや)にあった城)を武田家に引き渡しました。同月、康成(やすしげ)に偏諱(へんき=「北条氏康」「北条氏政」「北条氏直」ならそれぞれ「康」「政」「直」の方を指す。「氏」は通じと呼ぶ。)を与え、氏繁(うじしげ)にしました。6月、結城家(ゆうきけ)・那須家(なすけ)が離叛しました。秋、皆川家(みながわけ)・壬生家(みぶけ)が従属(じゅうぞく=他のものの下に、つき従うこと)しました。11月、武蔵御嶽(むさしみたけ=東京都青梅市(とうきょうと おうめし)にある神社)を武田家から割譲(かつじょう=所有物・権利などの一部を分けて与えること)されました。12月、栗橋城(くりはしじょう=現在の茨城県猿島郡五霞町元栗橋(いばらきけん さしまぐん ごかまち もとくりはし)にあった城)を奪回(だっかい=うばいかいえすこと)しました。同月、多功原合戦(たこうがはらのかっせん=現在の栃木県河内郡上三川町(とちぎけん かわちぐん かみのかわまち)で行われた戦争)で敗北しました。
以上諸説あり。