ここでは、1568年~1569年までに、北条氏政(ほうじょう うじまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1568年(永禄(えいろく)十一年)2月、武田義信(たけだ よしのぶ)の後室(こうしつ=身分のある人の未亡人)を請け取り(うけとり=受け取る)、駿河(するが=静岡県中部)に帰国しました。3月、足利義秋(あしかが よしあき=のちの足利義昭(あしかが よしあき))が、上杉輝虎(うえすぎ てるとら=上杉謙信(うえすぎ けんしん))に相甲越三和(後北条氏(相模)・武田氏(甲斐)・上杉氏(越後)の三者間での和睦)を受けて上洛(じょうらく=京都に入ること)を要請(ようせい=必要なこととして、実現を願い求めること)しました。4月、今川氏真(いまがわ うじざね)が、上杉輝虎に三和周旋(さんわ しゅうせん=三者間の仲に立って世話をすること)を申し入れました。5月、梁田家(やなだけ)から古河城(こがじょう=現在の茨城県古河市(いばらきけん こがし)にあった城)を請け取りました。9月、栗橋城(くりはしじょう=現在は茨城県猿島郡五霞町元栗橋(いばらきけん さしまぐん ごかまちもと くりはし)にあった城)を接収(せっしゅう=国家権力などが、強制的に国民の所有物を取り上げること)しました。12月、駿河に向けて伊豆三島(いずみしま=現在の静岡県三島市)に出陣(しゅつじん=戦争に出向くこと)しました。
1569年(永禄十二年)1月、氏康が、里見家(さとみけ)に和睦を打診(だしん=交渉の際、相手側の意向を知るために前もってその問題に触れて、相手の反応をみること)しました。2月、氏邦(うじくに)、鉢形城(はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町大字鉢形(さいたまけん おおさとぐん よりいまち はちがた)にある城)に本拠(ほんきょ=活動の主なよりどころ)を移しました。5月、徳川家康(とくがわ いえやす)と和睦し、今川氏真(いまがわ うじざね)らを引き取りました。同月、国王丸(くにおうまる=氏直(ほうじょう うじなお)の幼名)、今川氏真の養子になりました。同月、国王丸、今川家の家督(かとく=あととり)をつぎました。6月、氏康・氏政、上杉輝虎宛の起請文(きしょうもん=神仏への誓いを記した文書)を作成しました。越相同盟(えつそうどうめい=甲斐の武田信玄に対抗するために、越後の上杉謙信と相模の北条氏政が結んだ軍事同盟のこと)が成立しました。9月、小田原城(おだわら じょう=現在の神奈川県小田原市にあった城)が、武田信玄(たけだ しんげん)に攻められました。10月、三増合戦(武田信玄と北条氏により行われた合戦のこと)で敗北しました。12月、蒲原城(かんばら じょう=現在の静岡県静岡市清水区蒲原(しずおかけん しずおかし しみずく かんばら)にあった城)が落城(らくじょう= 敵に城を攻め落とされること)し、北条氏信(ほうじょう うじのぶ)が戦死しました。
以上諸説あり。