ここでは、1566年~1567年までに、北条氏政(ほうじょう うじまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1566年(永禄(えいろく)五年)2月、上杉輝虎(うえすぎ てるとら=上杉謙信(うえすぎ けんしん))との和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)を足利義秋(あしかが よしあき=のちの足利 義昭(あしかが よしあき))から要請(ようせい=必要だとして、強く願い求めること)されました。5月、小田(おだ=現在の茨城県つくば市小田(いばらきけん つくばし おだ))・小山(おやま=現在の東京都東部・埼玉県東部・千葉県北部・茨城県西部)・結成(ゆうき=現在の東京都東部・埼玉県東部・千葉県北部・茨城県西部)・宇都宮(うつのみや=現在の栃木県宇都宮市(とちぎけん うつのみやし))各家は北条に従属(じゅうぞく=強力なものにつき従うこと)しました。同月、左京大夫(さきょうのだいぶ=左京職の長官)に任官(にんかん=官に任じられること)しました。氏康は相模守(さがみのかみ=神奈川県の北東部を除く大部分)に遷任(せんにん=異なる官職・任務、または任地にうつしかえること)しました。8月、足利義秋の近臣(きしん=主君のそば近くに仕える)細川藤孝(ほそかわ ふじたか)に三和要請について返答しました。同月、皆川(みながわ=現在の栃木県栃木市(とちぎけん とちぎし))・由良(ゆら=現在の群馬県(ぐんまけん))・成田(なりた=現在の千葉県成田市(ちばけん なりたし))各家が北条に従属しました。11月、富岡(とみおか=東京都江東区富岡(とうきょうと こうとうく とみおか))家が北条に従属しました。12月には、毛利北条(もうり きたじょう)家が北条に従属しました。同月、舘林長尾(たてばやし ながお=群馬県舘林市(ぐんまけん たてばやし))家が北条に従属しました。この年、次女・竜寿院殿が生まれました。
1567年(永禄六年)1月、佐竹義重(さたけ よししげ)と和睦しました。4月、簗田晴助(やなだ はるすけ)・持助(もちすけ)父子(ふし)に起請文(きしょうもん=神仏への誓いを記した文書)を出しました。5月、氏照(うじてる)が、野田景範(のだ かげのり)に起請文を出しました。6月、守屋相馬(もりや そうま=現在の茨城県守谷市(いばらきけん もりやし))家が北条に従属しました。8月、三船台合戦(みふねやまかっせん=上総国君津郡三船台(かずさのくに きみつぐん みふねやま=現在の千葉県君津市上湯江富津市前久保(ちばけん きみつし かみゆえ・ふっつし まえくぼ))において、里見義弘(さとみ よしひろ)との間でおこなわれた戦い)で敗北し、太田氏資(おおた うじすけ)は戦死しました。9月、岩付領(いわつきりょう=現在の埼玉県さいたま市岩槻区)を接収(せっしゅ=権力機関が、個人の所有物を強制的に取り上げること)しました。同月、氏照、滝山城(たきやまじょう=現在の東京都八王子市丹木町(とうきょうと はちおうじし たんぎまち)にあった城)に本拠(ほんきょ=活動の主なよりどころ)を移しました。10月、佐野(さの=現在の現在の栃木県佐野市(とちぎけん さのし))家が北条に従属しました。
以上諸説あり。