ここでは、1562年~1565年までに、北条氏政(ほうじょう うじまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1562年(永禄(えいろく)五年)1月、氏康(うじやす)、将軍・足利義輝(あしかが よしてる)から今川氏真(いまがわ うじざね)と松平元康(まつだいら もとやす=のちの徳川家康)の和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)の周旋(しゅうせん=仲に立って世話をすること)を要請(ようせい=必要だとして、強く願い求めること)されました。4月、葛西城(かさいじょう=現在の東京都葛飾区青戸にあった城)を奪回(だっかい=うばい返すこと)しました。この年、次男・氏直(うじなお)が生まれました。
1563年(永禄六年)2月、松山城(まつやまじょう)を奪回しました。8月、土気(とけ=現在の千葉県千葉市緑区土気町(ちばけん ちばし みどりく とけまち))酒井康治(さかい やすはる)に所領(領主・地主が私有する土地の総称)を充行(あてが)いました。
1564年(永禄七年)1月、国府台合戦(こうのだいかっせん=国府台城(現在の千葉県市川市)一帯で行われた里見軍(さとみ ぐん)との戦い)で勝利しました。5月、東金(とうがね=現在の千葉県東金市(ちばけん とうがねし))酒井胤敏(さかい たねとし)は北条に従属(じゅうぞく=強力なものにつき従うこと)しました。6月、勝浦(かつうら=現在の千葉県勝浦市浜勝浦(ちばけん かつうらし はまかつうら))正木時忠(まさき ときただ)は北条に従属しました。7月、岩付(いわつき=現在の埼玉県さいたま市岩槻区(さいたまけん さいたまし いわつきく))太田氏資(おおた うじすけ)は北条に従属しました。
1565年(永禄八年)2月、土気城(とけ じょう=現在の千葉県千葉市緑区土気町にあった城)を攻撃しました。3月、関宿城(せきやどじょう=現在の千葉県野田市関宿三軒家(ちばけん のだし せきやどさんげんや)にあった城)を攻撃しました。8月、忍領(おしりょう=埼玉県行田市(さいたまけん ぎょうだし)の中心)に侵攻(しんこう=他の領土をせめこむこと)しました。9月、忍城(おし じょう=現在の埼玉県行田市にあった平城)を攻撃しました。氏康の出陣の最後になりました。
以上諸説あり。