北条氏政(5/20)(1558年~1561年)

ここでは、1558年~1561年までに、北条氏政(ほうじょう うじまさ)が、たずさわったことを勉強します。

1558年(永禄(えいろく)元年)4月、足利義氏(あしかが よしうじ)、小田原(おだわら=現在の神奈川県南西部の市)を訪問しました。7月、弟・千代丸(ちよまる=のちの氏邦(うじくに))が、藤田(ふじた)家当主になりました。10月、相模中郡大応寺(さがみ なかぐん だいおうじ=現在の神奈川県中郡二宮町にある寺)に禁制を出しました。

1559年(永禄二年)2月、氏康、「北条家所領投帳」を作成しました。3月、氏康(うじやす=父)と氏政が、将軍・足利義輝(あしかが よしてる)から武田晴信(たけだ はるのぶ)と長尾景虎(ながお かげとら=のちの上杉謙信)の和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)周旋(しゅうせいん=売買・交渉などで、当事者間に立って世話をすること)を要請(ようせい=必要だとして、強く願い求めること)されました。8月、綱成(つなしげ)次男の康元(やすもと)、上野沼田家(こうず ぬまたけ=現在の群馬県沼田市)の当主になりました。12月、氏康より家督(かとく=あととり)をゆずられ、北条家当主になりました。

1560年(永禄三年)2月、本光寺(ほんこうじ)宛に虎朱印状(とらいんぱんじょう)を発給(はっきゅう=出して与えること)しました。5月、氏康、里見義堯(さとみ よしたか)の本拠・久留里城(くるりじょう)を攻撃(こうげき=進んで敵を攻めうつこと)しました。9月、長尾景虎、関東(かんとう=現在の関東と静岡県伊東半島と山梨県)に侵攻(しんこう=他国や他の領地に攻め込むこと)しました。12月、氏康と連署(れんしょ=同じ書面に二名以上の人がならべて署名すること)で家臣(かしん=けらい)・池田安芸守(いけだ あきのかみ=現在の広島県西部)に判物(はんもつ=武家文書の一つ)を出しました。

1561年(永禄四年)1月、長尾景虎、武蔵(むさし=現在の東京都と埼玉県と神奈川県の一部)に進軍(しんぐん=軍を進めること)しました。3月、小田原城(おだわらじょう=現在の神奈川県小田原市にあった城)、長尾景虎にせめられました。6月、勝沼領(かつぬまりょう=現在の山梨県東山梨郡勝沼町(やまなしけん ひがしやまなしぐん かつぬまちょう))に進軍しました。8月、唐貝山城(からかいやまじょう=)を攻略(こうりゃく=敵陣(てきじん)をせめ取ること)し、三田家(みたけ)を滅(ほろ)ぼしました。11月、生山合戦(なまやまかっせん=現在の埼玉県本庄市美里町(さいたまけん ほんじょうし みさとまち)において、氏康と上杉政虎(うえすぎ まさとら=のちの上杉謙信(うえすぎ けんしん))との間で行われた戦い)がありました。12月、倉賀野城(くらがのじょう=群馬県高崎市倉賀野町(ぐんまけん たかさきし くらがのまち)にあった城)を攻撃しました。同月、弟・氏邦が、高松城(たかまつじょう=現在の埼玉県秩父郡皆野町日野沢(さいたまけん ちちぶぐん みなのまち しもひのざわ)にあった城)を攻略し、花園領(はなぞのりょう=現在の埼玉県深谷市(さいたまけん ふかやし))を平定(へいてい=反乱などをしずめて秩序(ちつじょ=物事を行う場合の正しい順序)を回復すること)しました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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