ここでは、1547年~1552年までに、北条氏政(ほうじょう うじまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1547年(天文(てんぶん)十六年)12月、松山(まつやま=現在の埼玉県比企郡吉見町(さいたまけん ひきぐん よしみまち))上田朝直(うえだ ともなお)が従属(じゅうぞく=他のものの下に、つき従うこと)しました。この年、氏康(うじやす)四女・早川殿(はやかわどの)が生まれました。
1548年(天文十七年)1月、岩付(いわつき=現在の埼玉県さいたま市岩槻区太田(さいたまけん さいたまし いわつきく))太田資正(おおた すけまさ)が従属しました。この年、氏康五男・氏邦(うじくに)が生まれました。
1549年(天文十八年)7月以前、花園(はなぞの=現在の埼玉県大里郡寄居大字末野城山)藤田泰邦(ふじた やすくに)が従属しました。10月、兄・西堂丸(せいどうまる=幼名。氏親(うじちか)。)とともに、飛鳥井雅綱(あすかい まさつな)から蹴鞠伝授書(けまり でんじゅしょ)を与えられました。また、氏政の幼名(おさなな=幼時の名のこと)が松千代丸(まつちよまる)と決まりました。
1550年(天文十九年)4月、氏康、「公事赦免令(くじしゃめんれい)」を発令(法令・辞令などを出すこと)しました。11月、氏康、上野平井城(こうずけ ひらいじょう=現在の群馬県藤岡市にあった城)を攻撃(こうげき=相手を攻めること)しました。
1551年(天文二十年)7月、氏康家臣・遠山綱景(とおやま つなかげ)が、武田家(たけだけ)との婚姻(こんいん=結婚すること)のため、晴信(はるのぶ)と対面しました。12月、氏康、足利晴氏(あしかが・はるうじ)宿老(しゅくろう=身分の高いおもだった家来)簗田晴助(やなだ はるすけ)と起請文(きしょうもん=神仏へのちかいを記した文書)を交換しました。
1552年(天文二十一年)3月、兄・氏親が死亡し、氏康が嫡子(ちゃくし=家督を継ぐ者)しました。3月、氏康、武蔵御嶽城(むさし みたけじょう=埼玉県児玉郡神川町(さいたまけん こだまぐん かみかわまち)にあった山城)を攻略(くりゃく=敵じんをせめ取ること)し、山内(やまのうち=現在の鎌倉市の大字)上杉憲政(うえすぎ のりまさ)を没落(ぼつらく=栄えていたものが衰えること)させました。5月、長尾景虎(ながおかげとら)、上野(こうずけ=現在の群馬県)に進軍(しんぐん=軍隊を進めること)しました。9月には氏康も、上野に出陣(しゅつじん=戦場に向いました)しました。
以上諸説あり。