ここでは、1544年~1546年までに、北条氏政(ほうじょう うじまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1544年(天文(てんぶん)十三年)1月、氏康(うじやす=氏政の父)が、武田晴信(たけだ はるのぶ)と和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)しました。6月には、氏康が、鶴岡八幡宮(つるおか はちまんぐう=現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下(かながわけん かまくらし ゆきのした)にある神社)の修造(しゅうぞう=修理)を終えました。
1545年(天文十四年)8月、氏康が、駿河(するが=現在の静岡県中部)に向けて伊豆三島(いず みしま=現在の静岡県東部の、伊豆半島の中北端)に出陣(しゅつじん=戦場に向かうこと)しました。9月、吉原城(よしはら じょう=現在の静岡県富士市にあった城)が落城(らくじょう=敵に城をせめ落とされること)されました。また同月、葛山氏元(かつらやま うじもと)が、離叛(りはん=従っていたものから離れそむくこと)しました。同月、河越城(かわごえ じょう=現在の埼玉県川越市(さいたまけん かわごえし)にある城(川越城))を山内(やまのうち=室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ)上杉憲政(うえすぎ のりまさ)と扇谷(おうぎがや=室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ)上杉朝定(つうえすぎ ともさだ)に攻撃をうけました。そして同月、駿河土雁原合戦がありました。10月、武田家(たけだけ)の和睦の仲介(ちゅうかい=間に入ること)が始まりました。同月、氏康、今川義元(いまがわ よしもと)と和睦しました。11月、長窪城(ながくぼ じょう=長野県小県郡長和町長久保(ながのけん ちいさがたぐん ながわまち ながくぼ)にあった城)を開城(降伏して城を敵に明け渡すこと)し、駿河から撤退し、「河東一乱(かとういちらん=天文六年から同十四年に起こった、今川義元と北条氏綱・氏康との争いのこと)」が終息しました。この年、氏康の四男・氏規(うじのり)が生まれました。
1546年(天文十五年)3月、岩付(いわつき=現在の埼玉県さいたま市岩槻区太田(さいたまけん さいたまし いわつきく))太田(おおた)全鑑(ぜんかん=名や字以外に人を呼ぶ際に使われる名前)が従属(じゅうぞく=他のものの下に、つき従うこと)しました。4月、氏康、河越に向けて出陣しました。同月、河越合戦で勝利しました。
以上諸説あり。