北条早雲(7/8)(1506年~1510年)

ここでは、1506年~1510年までに、北条早雲(ほうじょう そううん)が、たずさわったことを勉強します。

1506年(永正(えいしょう)三年)7月18日、宗端(そうずい=北条早雲)の妻・南陽院殿(なんよういんどの)が亡くなりました。8月、宗端は、今川氏親(いまがわ うじちか、1471~1526=今川義元(よしもと)の父、北条早雲の甥(おい=自分の兄弟姉妹の生んだ男子))の要請(ようせい=必要だとして、強く願い求めること)により、三河国(みかわのくに=現在の愛知県(あいちけん)東部)に出陣(しゅつじん=戦場に出て行くこと)し、松平長親(まつだいら ながちか、1473~1544=松平氏の第5代当主(とうしゅ=その家の現在の主人))と戦いました。この年、宗端は、相模国足柄下郡宮地(さがみのくに あしがらしもごおりみやじ=現在の神奈川県足柄上郡松田町(かながわけん あしがらかみぐん まつだまち))と足柄上郡松田惣領(あしがらかみごおりまつだそうりょう=現在の神奈川県足柄上郡松田町)で検地(けんち=領主(りょうしゅ=支配する者)が領民(りょうみん=支配される人たち)の年貢(ねんぐ=年ごとに差し出す物品・金銭)の量を決めるために領内の田畑などの面積や収穫量(しゅうかくりょう=農作物のとれる量)を調べること)するために行った土地調査)を行いました。また、「伊勢宗端十七箇条(いせそうずいじゅうななかじょう=領国支配のため基本法)」を制定(せいてい=規則として取り決めること)しました。

1508年(永正五年)10月、宗端は、今川氏親の要請により三河国に出陣しました。11月、宗端は、大徳寺(だいとくじ=現在の京都府京都市北区紫野大徳寺町(きょうとふ きょうとし きたく むらさきのだいとくじちょう)の龍源院(りょうげんいん))七十三世(せい)・東溪宗牧(とうけいそうぼく)から天岳(てんがく)の道号(どうごう=僧侶(そうりょ=お坊さん)が適当な法階(ほうかい=僧侶の階級)に進んだ時、師(し=ししょう)から授けられる称号(しょうごう=呼び名)))を受けました。

1510年(永正七年)7月、宗端は、扇谷上杉朝良(おうぎがやつ うえすぎ ともよし、1473~1518=扇谷上杉家12代当主)方(がた)の武将(ぶしょう=武士の大将)・上田政盛(うえだ まさもり=扇谷上杉家の家臣(かしん=けらい))に武蔵国権現山城(むさしのくに ごんげんやまじょう=現在の神奈川県横浜市神奈川区幸ケ谷(かながわけん よこはまし かながわく こうがや)にあった城)で叛旗(はんき=謀反(むほん=主君(しゅくん=主人)などにそむくこと)を起こして立てる旗)をひるがえさせました。朝良は山内上杉憲房(やまのうち うえすぎ のりふさ、1467~1525=山内上杉家13代当主)らとともに権現山城を落としました。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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