ここでは、1499年~1505年までに、北条早雲(ほうじょう そううん)が、たずさわったことを勉強します。
1499年(明応(めいおう)八年)3月、宗端(そうずい=北条早雲)は、伊豆国修禅寺(いずのくに しゅぜんじ=現在の静岡県伊豆市修善寺(しずおかけん いずはんし しゅぜんじ)にある寺院)に判物(はんもつ=大名などが判(はん=はんこ)を押した文書)を出し、門前不入(もんぜんふにゅう=門の前の地に立ち入らせないこと)、山林の保護などを約束しました。
1501年(文亀(ぶんき)元年)9月、宗瑞は、甲斐国(かいのくに=現在の山梨県)を攻め入りました。この年、今川氏親(いまがわ うじちか、1471~1526=今川義元(よしもと)の父、北条早雲の甥(おい=自分の兄弟姉妹の生んだ男子))が、遠江国(とおとうみのくに=現在の静岡県西部)の斯波(しば)氏を攻め、宗端は、三河国(みかわのくに=現在の愛知県(あいちけん)東部)の岡崎城(おかざき じょう=現在の愛知県岡崎市康生町(おかざきし こうせいちょう)にあった城)と岩津城(いわつ じょう=現在の愛知県岡崎市岩津町東山(いわづちょう ひがしやま)にあった城)を攻めました。
1504年(永正(えいしょう)元年)8月、山内上杉顕定(やまのうち うえすぎ あきさだ、1454~1510=山内上杉家11代当主(とうしゅ=あるじ))が、扇谷上杉朝良(おうぎがやつ うえすぎ ともよし、1473~1518=扇谷上杉家12代当主)の河越城(かわごえ じょう=現在の埼玉県川越市(さいたまけん かわごえし)にある川越城)を攻め、9月6日には、江戸城を(えど じょう=現在の東京都千代田区千代田にあった城)を攻めようと武蔵国白子(むさしのくに しらこ=現在の埼玉県和光市(わこうし))に陣(じん=陣地(じんち))をはりました。同月20日、宗端は、武蔵国稲毛(むさしのくに いなげ=現在の神奈川県川崎市(かながわけん かわさきし))の枡形山(ますがたやま)に着陣(ちゃくじん=陣地に到着(とうちゃく)すること)しました。同月27日、扇谷上杉朝良は、宗端と今川氏親の救援(きゅうえん=危険(きけん)におちいっている人を助けること)により、河越城を出撃(しゅつげき=敵を攻撃(こうげき)するために自分の陣地を出ること)し、山内軍と武蔵国立河原(たちがわら=現在の東京都立川市(たちかわし))で戦いました。
1505年(永正二年)3月29日、山内上杉顕定と扇谷上杉朝良が和睦(わぼく=争いをやめ仲直りすること)し、宗端を共通の敵(てき)としました。
以上諸説あり。