ここでは、1487年~1491年までに、北条早雲(ほうじょう そううん)が、たずさわったことを勉強します。
1487年(長享(ちょうきょう)元年)11月9日、伊勢新九郎(いせ しんくろう=北条早雲)は、駿府館(すんぷ やかた=現在の静岡県静岡市(しずおかけん しずおかし)にあった館)の小鹿範満(おしか のりみつ、~1487)を攻め討ち取り、龍王丸(たつおうまる、1473~1526=のちの今川氏親(うじちか))が、丸子城(まりこじょう=現在の静岡県静岡市駿河区丸子にあった城)から駿府館に入りました。その後、龍王丸は元服(げんぷく=男子が成人になったことを示す儀式)し今川氏親となり、新九郎は戦功(せんこう=戦いで立てたてがら)により駿河国富士郡下方庄十二郷(するがのくに ふじごおり しもかたのしょうじゅうにごう=現在の静岡県富士市(ふじし))を与えられ、興国寺城(こうこくじじょう=現在の静岡県沼津市根古屋(ぬまづし ねごや)にあった城)に移りました。この年、伊勢新九郎の長男・氏綱(うじつな、1487~1541)が生まれました。
1489年(延徳(えんとく)元年)この年、伊勢新九郎の次男・氏時(うじとき、1589~1531)が生まれました。
1491年(延徳三年)正月7日、足利義視(あしかが よしみ、1439~1491=室町幕府6代将軍足利義教 (あしかが よしのり、1394~1441) の子)が亡くなりました(享年(きょうねん=死んだ時の年齢)53)。4月3日、堀越公方(ほりごえくぼう=室町時代に関東で勢力を持った公方(くぼう=身分を越えた称号を勝手に名乗ること)の一。伊豆堀越(いずほりごえ=現在の静岡県伊豆の国市(いずのくにし))を本拠地としていた)・足利政知(あしかが まさとも、1435~1491=室町幕府6代将軍足利義教の次男)が亡くなりました(享年57)。7月1日、足利政知の長男・茶々丸(ちゃちゃまる、1491~1498)が、異母弟(いぼてい=はらちがいの弟)・潤童子(じゅんどうじ、~1491)とその母・円満院(えんまんいん)を殺害(さつがい)しました。伊豆国(いずのくに=現在の静岡県伊豆半島(いずはんとう)、東京都伊豆諸島(とうきょうと いずしょとう))は内乱状態(ないらん じょうたい)となりました。9月4日、伊勢新九郎の父・盛定(もりさだ、~1491)が亡くなりました。この頃、伊勢新九郎は、入道(にゅうどう=仏門に入ること)して宗端(そうずい)と名乗りました。
以上諸説あり。