北条早雲(2/8)(1458年~1469年)

ここでは、1458年~1469年までに、北条早雲(ほうじょう そううん)が、たずさわったことを勉強します。

1458年(長禄(ちょうろく)二年)この年、室町幕府八代将軍・足利義政(あしかが よしまさ、)の異母弟(いぼてい=腹ちがいの弟)・政知(まさとも、1435~1491)が、伊豆国堀越(いずのくに ほりごえ=現在の静岡県伊豆の国市(しずおかけん いずのくにし))に入り、堀越公方(ほりごえ くぼう=伊豆堀越に本拠(ほんきょ=活動の主なよりどころ)を置いた室町幕府の一機関)となりました。

1464年(寛正(かんしょう)五年)11月15日、足利義政が、弟の義視(よしみ、1439~1491)を後継(こうけい=あとつぎ)に立て、翌月、還俗(げんぞく=一度出家した者がもとの俗人(世間一般の人)に戻ること)させました。

1467年(応仁(おうにん)元年)5月、応仁の乱(おうにんのらん=応仁元年に発生し、文明九年までの約11年間にわたって継続した東軍・細川勝元(ほそかわ かつもと、1430~1473)と西軍・山名宗全(やまな そうぜん、1404~1473)との内乱)が起きました。8月、足利義視は、京都から伊勢国(いせのくに=三重県(みえけん)の大半)に逃れました。伊勢国士(こくし=一国の中ですぐれた人物)・守護(しゅご=一国の管理を任された有力武士)兼任(けんにん=二つ以上の仕事を同時にかねること)・北畠教具(きたばたけ のりとも、1423~1471)は、義視のために御所(ごしょ=大臣などの住居)を新築しました。9月10日、足利義視の家臣団(かしんだん=将軍や大名など武家に仕える家臣層・家臣の集団)(伊勢新九郎(いせ しんくろう=北条早雲)も含む)が、義視のもとに着きました。この年、駿河国(するがのくに=現在の静岡県中部)守護・今川義忠(いまがわ よしただ、1436~1476)と新九郎の妹・北川殿(きたがわどの、~1529)が結婚しました。

1468年(応仁二年)9月21日、足利義視が、将軍・義政と細川勝元の要請(ようせい=必要なこととして、実現を願い求めること)により、京都に帰りました。伊勢新九郎は京(きょう=京都)へ戻らず、駿河国に下向(げこう=都から地方へ行くこと)しました。

1469年(文明(ぶんめい)元年)この頃、今川義忠と北川殿の間に、長女が生まれました。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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