
北条早雲(ほうじょう そううん,1432~1519)は、もともと室町幕府(むろまち ばくふ=足利尊氏(あしかが たかうじ、1305~1358)が日本の京都で創始(そうし=新たに物事をはじめること)した武家政権)の役人でした。伊豆(いず=現在の静岡県(しずおかけん))を支配していた足利氏(あしかが し)が後つぎ争いを起こして混乱していたとき、わずかな兵を率いて伊豆をうばい取り、続いて、小田原城(おだわらじょう=現在の神奈川県小田原市(かながわけん おだわらし)にあった城)を攻撃してうばい取りました。このとき早雲は牛の角に松明(たいまつ=松のやにの多い所や竹やアシなどを束ね、火をつけて照明とするもの)をつけて放ち、大軍がいると思わせたといいます。実力で領主(りょうしゅ=特定の土地を所有し、かつその土地とその住民を直接的に支配する者)となった北条早雲は「最初の戦国大名(せんごく だいみょう=守護大名(しゅご だいみょう=地方を支配した領主)を倒して権力をにぎった武将)」と言われています。
ここでは、北条早雲が生まれた1432年から1457年を勉強します。
1432年(永享(えいきょう)四年)この年、伊勢新九郎(いせ しんくろう=北条早雲)が生まれました。父は伊勢備前守盛定(いせ びぜんのかみ もりさだ)、母は伊勢貞国(いせ さだくに、1398~1454)の娘でした。
1438年(永享十年)8月、永享の乱(えいきょうのらん=鎌倉公方(かまくらくぼう=京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した釜久場幕府の長官)の足利持氏(あしかが もちうじ、1398~1439)と関東管領(かんとうかんりょう=鎌倉公方を補佐するために設置された役職)の上杉憲実(うえすぎ のりざね、1410~1466)の対立をきっかけに、室町幕府六代将軍足利義教(あしかが よしのり、1394~1441)が持氏討伐(とうばつ=兵を出して、反抗(はんこう)する者や従わない者を攻(せ)めうつこと)を命じた事件)が起きました。
1453年(享徳(きょうとく)二年)新九郎の父・盛定は、備中国(びっちゅうのくに=現在の岡山県(おかやまけん)西部)高越山城主(たかこしやまじょうしゅ)となりました。
1457年(康正(こうしょう)三年)4月ごろ、太田道灌(おおた どうかん、1432~1486)が、江戸城(えどじょう=現在の東京都千代田区千代田(とうきょうと ちよだく ちよだ)にあった城)を築きました。
以上所説あり。