北条早雲(3/8)(1471年~1486年)

ここでは、1471年~1486年までに、北条早雲(ほうじょう そううん)が、たずさわったことを勉強します。

1471年(文明(ぶんめい)三年)6月2日、備中国荏原庄内長谷法泉寺(びっちゅうのくに えばらのしょうない はせほうせんじ=現在の岡山県井原市西江原町(おかやまけん いばらし にしえばらちょう)にある寺社)に領主(りょうしゅ=特定の土地を所有し、かつその土地とその住民を直接的に支配する者)・伊勢新九郎(いせ しんくろう=北条早雲)が三カ条の禁制を下しました。この年、今川義忠(いまがわ よしただ、1436~1476)と北川殿(きたがわどの、~1529=新九郎の妹)の間に、長男・龍王丸(たつおうまる、1473~1526=のちの今川氏親(うじちか))が生まれました。

1476年(文明八年)2月9日、今川義忠が、遠江国塩貝坂(とおとうみのくに しおかいざか=現在の静岡県菊川市(しずおかけん きくがわし))で敵残党(てきざんとう=わずかに生き残っている敵)の一揆(いっき=農村の地侍などの暴動)に討たれ、亡くなりました(享年(きょうねん=死んだ時の年齢)41)。この時、龍王丸は6歳でした。義忠が亡くなったことにより、幼少(ようしょう=おさないこと)の龍王丸を今川家当主(とうしゅ=その家の現在の主人)とする一派(いっぱ=なかま)と、今川一族の小鹿範満(おしか のりみつ、~1487)に家督相続(かとく そうぞく=あとつぎをうけつぐこと)させようとする一派に分かれ、内紛(ないふん=うちわのもめごと)が起こりました。駿河国石脇城(するがのくに いしわきじょう=現在の静岡県焼津市石脇下(しずおかけん やいづし いしわきしも)にあった城)に入った伊勢新九郎が、争いを収めました。

1477年(文明九年)11月、応仁の乱(おうにんのらん=応仁元年に発生し、文明九年までの約11年間にわたって継続した東軍・細川勝元(ほそかわ かつもと、1430~1473)と西軍・山名宗全(やまな そうぜん、1404~1473)との内乱)が終わりました。

1479年(文明十一年)12月21日、龍王丸が正式に今川家当主となりました。

1483年(文明十五年)10月、伊勢新九郎は、室町幕府(むろまち ばくふ)の申次衆(もうしつぎしゅう=役職名の一つ)となりました。

1486年(文明十八年)7月26日、太田道灌(おおた どうかん、1432~1486)が、相模国糟屋館(さがみのくに かすややかた=現在の神奈川県伊勢原市(かながわけん いせはらし))で主人・扇谷上杉定正(おうぎがやつ うえすぎ さだまさ、1446~1494)に暗殺(あんさつ=主に政治的な理由で要人(ようにん=重要な地位にある人)をひそかにねらって殺すこと)されました(享年55)。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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