加藤清正(8/8)(1601年~1611年)

ここでは、1601年~1611年、加藤清正(かとう きよまさ)が亡くなるまでを勉強します。

1601年(慶長(けいちょう)六年)8月、熊本城(くまもと じょう=現在の熊本県熊本市中央区(くまもとけん くまもとし ちゅうおうく)にある城)の築城(ちくじょう=城をきずくこと)を開始しました。

1607年(慶長十二年)正月27日、長男・忠正(ただまさ)が9歳で亡くなりました。8月、西欧(せいおう=ヨーロッパ)と貿易する朱印状(しゅいんじょう=朱印(しゅにくを使って押した印)が押された公的文書のこと)を受けました。12月、熊本城が落成(らくせい=工事が完了して城ができあがること)し、隈本(くまもと)を熊本と改称(かいしょう=名前や呼び名を変えること)しました。

1609年(慶長十四年)正月、シャム(現在のタイ国)および、交趾(こうし=現在のベトナム北部トンキン・ハノイ地方)と貿易する朱印状を受けました。この年、名古屋城(なごやじょう=現在の愛知県名古屋市中区・北区にあった城)築城の命(めい=言いつけ)を受け、整地(せいち=建築のために、地ならしをすること)にとりかかりました。

1610年(慶長十五年)3月、家康(いえやす)が主催(しゅさい=中心となって会合や行事などを行うこと)する能楽(のうがく=日本の芸能の一つ)に勅使(ちょくし=天皇の意思を伝える使者)とともに招待(しょうたい=客を招くこと)されました。5月、名古屋城の整地を完了(かんりょう=おえること)し、6月、天守閣(てんしゅかく)石垣(いしがき=石を組み上げて作られた壁)の築造(ちくぞう=土石などを積み上げつくること)を開始し、7月に天守台(てんしゅだい=天守閣の石垣)の工事を終えました。

1611年(慶長十六年)3月、豊臣秀頼(とよとみ ひでより)に付き添い(つきそい=人のそばについて、世話をすること)上洛(じょうらく=京都に行くこと)し、家康との対面に立ち会いました(二条城(にじょうじょう=現在の京都府京都市中京区(きょうとふ きょうとし なかぎょうく)にある城)会見(かいけん=人と人とが会うこと))。5月、熊本へ帰る船中(せんちゅう=船のなか)で発熱し、同月に熊本に帰着(きちゃく=帰り着くこと)しました。6月24日、加藤清正、熊本城において逝去(せいきょ=なくなること)しました。50歳でした。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA