ここでは、1594年~1597年までに、加藤清正(かとう きよまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1594年(文禄(ぶんろく)三年)4月、西生浦(そせんぽ=現在の大韓民国(だいかんみんこく=通称・韓国)蔚山広域市蔚州郡(だいかんみんこく ウルサンこういきし ウルチュぐん))において明(みん=中国の歴代王朝の一つ)の講和使(こうわし=交戦国が、互いに協定を結んで戦争をやめ、平和を回復することを目的に遣わされた者)・任惟政(いむ ユ ジョン)を引見(いんけん=地位の高い人が、人を呼び入れて対面すること)しました。7月、再び任惟政を迎え(むかえ)、講和(こうわ=交戦国が、互いに協定を結んで戦争をやめ、平和を回復すること)を話し合いました。
1595年(文禄四年)6月、朝鮮(ちょうせん=現在の朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく=通称・北朝鮮)および大韓民国)の高官(こうかん=地位の高い官職)(李栄春(い えいしゅん)、尹起辛(ゆん きしん)ら)、王命(おうめい=国王の命令)によって秀吉(ひでよし)に書(しょ=手紙)を差し出し、清正の武勇(ぶゆう=武術にすぐれ、勇気のあること)を称えました(たたえました=すぐれているとほめる)。
1596年(慶長(けいちょう)元年)4月、清正、召喚(しょうかん=人を呼び出す)の命に接し、6月、釜山浦(ぷさんぽ=現在の大韓民国釜山広域市(プサンこういきし)にある港)を発ちました(出発しました)。閏7月、京阪地方(けいはんちほう=現在の京都府京都市伏見区(きょうとふきょうとし ふしみく)付近)で大地震(だいじしん=慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん))があり、直ちに(ただちに=すぐに)伏見城(ふしみじょう=現在の京都府京都市伏見区桃山地区(きょうとふ きょうとし ふしみく ももやまちく)にあった城)に秀吉を見舞って(みまって=災難にあった人などを訪れてなぐさめること)、豊臣(とよとみ)の姓(せい=名字(みょうじ))を称する(しょうする=名乗る)ことを許されました。11月、秀吉の命で肥後(ひご=現在の熊本県(くまもとけん))を発ち、再び朝鮮へ行きました。
1597年(慶長二年)8月、諸将(しょしょう=多くの将軍・大将)とともに南原(なむうぉん=現在の大韓民国南原市(なむうぉんし))を攻略(こうりゃく=敵陣(てきじん)をせめ取ること)しました。12月、蔚山城(うるさんじょう=現在の大韓民国蔚山広域市(だいかんみんこく うるさんし)にあった城)の危急(ききゅう=危険・災難がさしせまっていること)を聞き、直ちに重囲(じゅうい=いくえにも取り囲むこと)を突いて(ついて=弱点をせめる)入城(にゅうじょう=城にはいること)しました。
以上諸説あり。