ここでは、1591年~1593年までに、加藤清正(かとう きよまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1591年(天正(てんしょう)十九年)9月、朝鮮(ちょうせん=現在の朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく=通称・北朝鮮)および大韓民国(だいかんみんこく=通称・韓国))出兵(しゅっぺい=軍隊を出動させること)の準備として肥前名護屋(ひぜん なごや=現在の佐賀県唐津市(さがけんからつし))に赴き(おもむき= ある場所に向かって行く)、翌年2月までに築城(ちくじょう=城を築くこと)を完成させました。
1592年(文禄(ぶんろく)元年)正月、大坂城(おおさかじょう=現在の大阪府大阪市中央区大阪城(おおさかふ おおさかし ちゅうおうく おおさかじょう)にある城)で高麗陣(こうらいじん=豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の朝鮮、明の連合軍との戦い)の先将(せんしょう=)を命じられました。4月、釜山(ぷさん=現在の大韓民国釜山広域市)に上陸しました。5月、漢江(はんがん=現在の大韓民国の北部を流れる川)を渡河(とか=川をわたること)し漢城(そうる=大韓民国の首都)を占領(せんりょう=他国の領土を武力によって自国の支配下に置くこと)しました。7月、会寧(ふぇりょん=朝鮮民主主義人民共和国会寧市)を攻略(こうりゃく=攻撃してうばい取ること)しました。朝鮮の二王子(におうじ=臨海君(りんかいくん)と順和君(じゅんわくん)の二人)、左右大臣(さうだいじん)、大官(だいかん)十二名などを生け捕り(いけどり=生きたままとらえること)し、同月、兀良哈(おらんかい=現在の中国(ちゅうごく=中華人民共和国)・東北地方の山脈(興安嶺=こうあんれい)の東に住んだモンゴル系種族)に攻め入り(せめいり=攻めて敵地に侵入する)ました。
1593年(文禄二年)正月、安辺府(あんびょんふ=現在の安辺郡(アンビョンぐん)=朝鮮民主主義人民共和国江原道(カンウォンどう)に属する郡)で大明(だいみん=中国、明国の尊号(そんごう=天皇・上皇・皇后・皇太后など))の勅使(ちょくし=天皇・皇帝・王など君主が出す使者のこと)を迎えました(むかえました=やって来る人を待ち受ける)。大明側(だいみん がわ)は威嚇(いかく=おどかすこと)し、兵(へい=軍人)を退かせ(ひかせ=うしろへさがる)ようとしたが、かえって清正の威(い=勢力)を恐れ(おそれ=おそれること)、鬼上官(おにじょうかん)と風説(ふうせつ=世間にひろまっているうわさ)されました。6月、秀吉(ひでよし)の命により、朝鮮の二王子、大臣(だいじん)などを石田三成(いしだ みつなり)に預(あ)けました。同月、晋州城(ちんじゅ じょう=現在の朝鮮半島にあった城)を占領しました。11月、安康(あんがん=現在の大韓民国慶尚北道慶州市安康邑(キョンサンプクト キョンジュし あんがん))をせめ、明将(みんしょう=中国、明(みん)の朝廷の将軍)・劉縦(りゅうしょう)の大軍(たいぐん=兵の数の多い軍隊)を破りました。
以上諸説あり。