加藤清正(2/8)(1571年~1582年)

ここでは、1571年~1582年までに、加藤清正(かとう きよまさ)が、たずさわったことを勉強します。

1571年(元亀(げんき)二年)、義叔母(ぎおば=配偶者の叔母)宅に押し入った盗賊(とうぞく=どろぼう)を奇計(きけい=人の予想もしない奇抜なはかりごと)をもって遁走(とんそう=逃げること)させました。

1574年(天正(てんしょう)二年)、母に連れられ長浜(ながはま=現在の滋賀県長浜市公園町(しがけん ながはまし こうえんちょう))の羽柴秀吉(はしば ひでよし)のもとへ行きました。秀吉は、清正に五石(ごこく=知行高(ちこうだか=武士に支給された土地)を表す単位。1石=3.3平方メートル、5石=16.5平方メートル。)を与え養育(よういく=やしなってそだてること)しました。

1576年(天正四年)、秀吉が烏帽子親(えぼしおや=男子の成年に際して立てる仮親)となり元服(げんぷく=男子が成人になったことを示す儀式(ぎしき=一定の作法・形式にのっとって行われる行事))を行い、実名を清正とし、禄(ろく=官に仕える者に支給される手当。知行高。)百七十石が与えられました。

1577年(天正五年)、長浜城下(ながはま じょう か=現在の滋賀県長浜市)をあらした市野久兵衛(いちの きゅうべえ)を捕縛(ほばく=とらえてしばること)した功績により、禄二百石を加増され、小物見役(こものみやく)となりました。

1581年(天正九年)6月、秀吉に従い、鳥取城(とっとり じょう)を攻め、蜂須賀正勝(はちすか まさかつ)とともに功名(こうみょう=手柄(てがら=功績)を立てて名をあげること)を立て、禄百石を加増されました。

1582年(天正十年)3月17日、備中冠山城(びっちゅうかんむりやま じょう=現在の岡山県岡山市北区下足守(おかやまけん おかやまし きたくしもあしもり)にあった城)の攻撃で、一番槍(いちばんやり=戦場で、槍(やり=木製の長いえにするどくとがっている先をもった武器)をふるって最初に敵陣に突き入ること)の功名を立て、禄百石を加増されました。6月13日、山崎の合戦(やまざきのかっせん=現在の大阪府三島郡島本町山崎(おおさかふ みしまぐん しまもとちょう やまざき)、京都府乙順郡大山崎町(きょうとふ おとくにぐん おおやまざきちょう)で行われた羽柴秀吉軍と織田信長(おだ のぶなが)を討った明智光秀(あけち みつひで)軍との戦い)で、敵将(てきしょう=敵軍の大将・将軍)・近藤半助(こんどう はんすけ)を討ち取り(うちとり=武器などを使って敵を殺すこと)、秀吉から「手柄者(てがらもの)」の感状(かんじょう=主君などが部下の戦功を賞して出した文書を賜りました(たまわりました=いただきました)。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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