
前田利家(まえだ としいえ)は尾張(おわり=現在の愛知県)に生まれ、若いころに織田信長に仕えました。利家は槍(やり)の名手で数々の戦いで活躍(かつやく=めざましく活動すること)しました。派手な身なりが好きで「かぶき者」と呼ばれていました。豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)とは家がとなりどうしで、家族ぐるみのつきあいをしていました。本能寺(ほんのうじ=現在の京都府京都市中京区下本能寺前町(きょうとふ きょうとし なかぎょうく しもほんのうじまえちょう)にある寺院)の変のあと、秀吉と柴田勝家(しばた かついえ)が対立し、賤ケ岳の戦い(しずがたけ の たたかい=現在の滋賀県長浜市賤ヶ岳(しがけん ながはまし しずがたけ)付近で起きた羽柴秀吉(はしば ひでよし)と柴田勝家(しばた かついえ)の戦い)に発展しました。そのとき利家は勝家の部下だったが、秀吉と争いたくなかった、戦わずに戦場を離れ、最後は秀吉に味方しました。秀吉は信頼された利家は、かが(かが=現在の石川県)をあたえられ、北陸地方(ほくりく ちほう=現在の新潟県、富山県、石川県、福井県の4県)の支配を任されました。豊臣政権(とよとみ せいけん)では最も重要な家臣として、秀吉と大名たちとの間に入ってまとめ役になりました。秀吉が死ぬと、徳川家康(とくがわ いえやす)が権力(けんりょく)をうばう動きを見せ始めました。利家は、「息子の秀頼(ひでより)を頼む」と、秀吉から頼まれていましたが、それができないまま、翌年に病死しました。
ここでは、前田利家生誕(1534年)から元服(げんぷく=男子が成人に達したことを示すための儀式)して孫四郎利家(まごしろう としいえ)と称するまで(1551年)を勉強します。
1538年(天文(てんぶん)七年)前田利家(まえだ としいえ)、前田利昌(まえだ としまさ=利春とも)の四男として、尾張国愛知郡荒子(おわりのくに あいちぐん あらこ=現在の愛知県名古屋市中川区)に生れました。幼名は犬千代と名付けられました。
1542年(天文十二年)十二月、徳川家康(とくがわ いえやす)、松平広忠(まつだいら ひろただ)の長男(ちょうなん)として三河国(みかわのくに=現在の愛知県東部)岡崎城(おかざき じょう=現在の愛知県岡崎市にあった城)で生まれました。幼名は竹千代と名付けられました。
1547年(天文十六年)七月、まつ(芳春院=ほうしゅんいん)が生まれました。
1550年(天文十九年)この年、まつが前田利昌に預けられました。
1551年(天文二十年)正月、利家、織田信長(おだ のぶなが)に正式に仕官(しかん=役人になること)しました。三月、信長、織田家の家督(かとく=あととり)を継(つ)ぎました。八月、利家、元服(げんぷく=男子が成人に達したことを示すための儀式)して孫四郎利家(まごしろう としいえ)と称しました。この年、利家、初陣(ういじん=初めて戦いにでること)を飾(かざ)りました(萱津の戦い(かやつ の たたかい= 織田信長・信光と坂井大膳が現在の愛知県あま市で行われた戦い))。
以上諸説あり。