前田利家(1/5)(1534年~1551年)

 前田利家(まえだ としいえ)は尾張(おわり=現在の愛知県)に生まれ、若いころに織田信長に仕えました。利家は槍(やり)の名手で数々の戦いで活躍(かつやく=めざましく活動すること)しました。派手な身なりが好きで「かぶき者」と呼ばれていました。豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)とは家がとなりどうしで、家族ぐるみのつきあいをしていました。本能寺(ほんのうじ=現在の京都府京都市中京区下本能寺前町(きょうとふ きょうとし なかぎょうく しもほんのうじまえちょう)にある寺院)の変のあと、秀吉と柴田勝家(しばた かついえ)が対立し、賤ケ岳の戦い(しずがたけ の たたかい=現在の滋賀県長浜市賤ヶ岳(しがけん ながはまし しずがたけ)付近で起きた羽柴秀吉(はしば ひでよし)と柴田勝家(しばた かついえ)の戦い)に発展しました。そのとき利家は勝家の部下だったが、秀吉と争いたくなかった、戦わずに戦場を離れ、最後は秀吉に味方しました。秀吉は信頼された利家は、かが(かが=現在の石川県)をあたえられ、北陸地方(ほくりく ちほう=現在の新潟県、富山県、石川県、福井県の4県)の支配を任されました。豊臣政権(とよとみ せいけん)では最も重要な家臣として、秀吉と大名たちとの間に入ってまとめ役になりました。秀吉が死ぬと、徳川家康(とくがわ いえやす)が権力(けんりょく)をうばう動きを見せ始めました。利家は、「息子の秀頼(ひでより)を頼む」と、秀吉から頼まれていましたが、それができないまま、翌年に病死しました。

ここでは、前田利家生誕(1534年)から元服(げんぷく=男子が成人に達したことを示すための儀式)して孫四郎利家(まごしろう としいえ)と称するまで(1551年)を勉強します。

1538年(天文(てんぶん)七年)前田利家(まえだ としいえ)、前田利昌(まえだ としまさ=利春とも)の四男として、尾張国愛知郡荒子(おわりのくに あいちぐん あらこ=現在の愛知県名古屋市中川区)に生れました。幼名は犬千代と名付けられました。

1542年(天文十二年)十二月、徳川家康(とくがわ いえやす)、松平広忠(まつだいら ひろただ)の長男(ちょうなん)として三河国(みかわのくに=現在の愛知県東部)岡崎城(おかざき じょう=現在の愛知県岡崎市にあった城)で生まれました。幼名は竹千代と名付けられました。

1547年(天文十六年)七月、まつ(芳春院=ほうしゅんいん)が生まれました。

1550年(天文十九年)この年、まつが前田利昌に預けられました。

1551年(天文二十年)正月、利家、織田信長(おだ のぶなが)に正式に仕官(しかん=役人になること)しました。三月、信長、織田家の家督(かとく=あととり)を継(つ)ぎました。八月、利家、元服(げんぷく=男子が成人に達したことを示すための儀式)して孫四郎利家(まごしろう としいえ)と称しました。この年、利家、初陣(ういじん=初めて戦いにでること)を飾(かざ)りました(萱津の戦い(かやつ の たたかい= 織田信長・信光と坂井大膳が現在の愛知県あま市で行われた戦い))。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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