前田利家(5/5)(1587年~1517年)

ここでは、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)九州攻めの年(1587年)から、前田利家の妻まつが金沢で亡くなる年(1617年)までを勉強します。

1587年(天正(てんしょう)十五年)正月、利家、秀吉(ひでよし)の九州攻め(きゅうしゅう ぜめ)には参加せず、大坂の留守(るす)を任され、利長(としなが)が秀吉に従い(したがい)九州攻めに参加しました。5月、秀吉、薩摩国(さつまのくに=現在の鹿児島県西部)の島津義久(しまづ よしひさ)を降伏(こうふく=敵に対して自ら敗れたことを認め、敵にしたがうこと)させ、九州を平定(乱れた世をしずめる)しました。

1588年(天正十六年)4月、利家、伊達政宗(だて まさむね)と最上義光(もがみ よしあき)との和平(わへい=戦いをやめ、仲直りすること)を仲介(ちゅうかい=なかだち)しました。

1590年(天正十八年)正月、利家、正四位下(しょうしいのげ=位階の一つ。従四位上の上、正四位上の下。)、参議(さんぎ=官職の一つ)となりました。7月、利家、秀吉の小田原(おだわら)征討(せいとう=反逆する者や服属しない者をせめうつこと)に従軍(じゅうぐん=軍隊に従って戦地に行くこと)し、秀吉が北条氏直(ほうじょう うじなお)を降伏させ、小田原城(おだわら じょう)に入りました。9月、秀吉は関東・奥州(現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県の一部)の遠征(えんせい=敵を討つために遠くまで出かけること)を終えて、京都に凱旋(がいせん=戦いに勝って帰ること)しました。

1591年(天正十九年)9月、秀吉、朝鮮出兵を発令しました。10月、利家、参議を辞任(じにん=職務を自分からやめること)しました。この年、利家、利長(としなが)親子、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう=主君のそば近くにあって話相手をする役)となりました。

1592年(文禄(ぶんろく)元年)5月、利家、肥前名護屋城(ひぜん なごや じょう=現在の佐賀県唐津市東松浦郡玄海町にあった城)に駐留(ちゅうりゅう=とどまる)し、漢城(はんそん=現在のソウル)に渡海(とかい=船で海を渡る)しようとする秀吉を諌止(かんし=いさめてやめさせる)したとされました。

1593年(文禄二年)9月、秀吉、利家の次男・利政(としまさ)の能登国(のと
のくに=現在の石川県北部)領有(領地として持つ)を許しました。この年、利家の四男・利常(としつね=のちの加賀藩三代藩主)が生まれました。

1595年(文禄四年)3月、利家、近江国高島郡内に加増され、次いで越中国新川郡を加封されました。この年、利家、秀吉の嫡子(ちゃくし=あとつぎ)・秀頼(ひでより)の守り役(もりやく)となりました。

1596年(慶長(けいちょう)元年)利家、従二位(じゅにい=位階の一つ。正三位の上、正二位の下)の権大納言(ごんのだいなごん=官職の一つ)になりました。

1597年(慶長二年)正月、利家、権大納言を辞任しました。

1598年(慶長三年)3月、利家とまつ、秀吉の醍醐の花見(だいごのはなみ)に招かれました。4月、利家、隠退(いんたい)し、利長が家督(かとく=あとつぎ)を継ぎました。8月、京都伏見で秀吉が亡くなりました。12月、利家、この頃から病気にかかりました。

1599年(慶長四年)2月、利家、伏見の家康(いえやす)を訪ねました。閏3月3日、利家、大坂屋敷(おおさかやしき)で病死しました(享年六十二年)。まつは、出家して芳春院(ほうしゅんいん)となりました。

1600年(慶長五年)9月、家康、石田三成(いしだ みつなり)率いる西軍を破りました(関ヶ原の戦い)。10月、利長、家康より、加賀国・能登国・越中国百二十余万石を与えられました。

1617年(元和(げんな)三年)7月、まつ、金沢で亡くなりました(享年七十一)。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA