ここでは、室町幕府(むろまち ばくふ)の滅亡(めつぼう)(1573年)から、信長(のぶなが)の京都御馬揃え(きょうと おうま ぞろえ=織田信長(おだ のぶなが)が京都で行った大規模な軍事パレード)に柴田勝家(しばた かついえ)とともに参加した年(1581年)までを勉強します。
1573年(天正(てんしょう)元年)七月、信長(のぶなが)が将軍(しょうぐん)義昭(よしあき)を追放(ついほう)しました(室町幕府の滅亡)。八月、利家、信長の小谷城(おだに じょう)攻めに従軍(じゅうぐん=軍隊に従って戦地に行くこと)しました。
1574年(天正二年)利家の四女(よんじょ)、豪(ごう)が生まれ、生後まもなく、秀吉の養女(ようじょ)となりました。
1575年(天正三年)五月、利家、武田軍との戦いで、織田・徳川連合軍(おだ・とくがわ れんごうぐん)とともに鉄砲隊(てっぽう たい)を指揮(しき)し活躍(かつやく)しました(長篠・設楽原の合戦(ながしの・したらはら の かっせん))。九月、信長、越前国(えちぜん の くに=現在の福井県北東部)を分封(ぶんぽう=領地を分け与えて支配させること)し、利家・佐々成政(さっさ なりまさ)・不破光治(ふわ みつはる)の府中三人衆(ふちゅう さんにん しゅう)に十万石(じゅうまんごく)を統治(とうち=まとめおさめること)されました。そのうち利家は、三万三千石(さんまんさんぜんごく)を拝領(はいりょう=目上の人から物をいただくこと)されました。
1577年(天正五年)八月、利家、柴田勝家(しばた かついえ)に従い、加賀国(かがのくに=現在の石川県南部)に出陣(しゅつじん=戦争に出向くこと)しました。九月、織田軍、加賀国で上杉謙信(うえすぎ けんしん)に連敗(れんぱい)しました(七尾城の戦い(ななお じょう の たたかい)、手取川の戦い(てどりがわ の たたかい))。
1578年(天正六年)利家の次男・利政(としまさ)が生まれました。
1581年(天正九年)二月、利家、信長の京都御馬揃え(きょうと おうま ぞろえ=織田信長が京都で行った大規模な軍事パレード)に柴田勝家とともに参加しました。十月、利家、信長より能登国(のとのくに=現在の石川県北部)を与えられました。十二月、利家の長男・利長(としなが)と信長の娘(玉泉院(ぎょくせんいん))と結婚し、越前府中(えちぜん ふちゅう=現在の福井県越前市)に封ぜられました(割り当てられる)。
以上諸説あり。