前田利家(2/5)(1556年~1570年)

ここでは、稲生の合戦(いのう の かっせん=現在の愛知県名古屋市西区で起きた織田信長と織田信之との戦い)(1556年)から、姉川の合戦(1570年)までを勉強します。

1556年(弘治(てんぶん)二年)利家、織田信長にそむいた織田信之(おだ のぶゆき=信勝(のぶかつ))の兵と戦い、宮井恒忠(みやい つねただ)を討ちました(稲生の合戦(いのう の かっせん=現在の愛知県名古屋市西区で起きた織田信長と織田信之との戦い))。

1558年(永禄(えいろく)元年)利家、まつと結婚し、又左衛門(またさえもん)と称しました(名乗りました)。

1559年(永禄二年)三月、信長が岩倉城(いわくら じょう=現在の愛知県岩倉市下本町)にあった城)を攻略し、尾張国(おわり の くに=現在の愛知県西部)を統一しました。六月、利家の長女、幸が生まれました。同月、利家、信長の同朋衆・拾阿弥(どうぼうじゅう・じゅうあみ=茶坊主)を斬り(きり)、信長の(かんき=主君など目上の人からのとがめ)に触れて出仕(しゅっし=勤めにでること)を止められました。

1560年(永禄三年)五月、信長、桶狭間(おけはざま=現在の愛知県名古屋市緑区と愛知県豊明市にまたがる地域)で今川義元(いまがわ よしもと)を討ちました。利家、密かに参陣(さんじん=戦いに加わる)して武功(ぶこう=戦いであげた手柄)をあげるも、帰参(一度主人の家を離れた者が、再び帰って仕えること)は許されませんでした。七月、父・利昌(としまさ)が亡くなりました。

1561年(永禄四年)五月、利家、信長の美濃国(みののくに=現在の岐阜県南部)攻略に密かに参陣し、戦功(せんこう=戦争であげた功績)をあげて帰参を許されました。

1562年(永禄五年)正月、利家の長男・利長(としなが=のち加賀藩二代藩主(かがはん にだいはんしゅ))が生まれました。幼名は犬千代(いぬちよ)としました。

1568年(永禄十一年)利家、織田家(おだ け)の赤母衣衆(あかほろしゅう=鎧(よろい)の背につけて流れ矢を防ぎ、また存在を示す標識にした幅の広い赤い布を背負った武士)となりました。

1569年(永禄十二年)十月、利家、信長の指示により、前田家(まえだ け)を継ぎました。

1570年(元亀(げんき)元年)五月、越前国(えちぜんのくに=現在の福井県中北部)進行中の信長、浅井長政(あざい ながまさ)離反(りはん=従っていたものが、そむきはなれること)に遭い(あい)、窮地(きゅうち=逃れようのない苦しい立場)に陥(おちい)りました(金ヶ崎の退き口(かねがさき の のきぐち))六月、利家、浅井・朝倉(あざい・あさくら)軍との戦いに従軍(じゅうぐん=軍隊につき従ってともに戦地へ行くこと)し、激戦の末、勝利しました(姉川の合戦(あねがわ の かっせん))。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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