佐々成政(14/17)(1587年1月~6月)

ここでは、1587年1月~6月までに、佐々成政(さっさ なりまさ)が、たずさわったことを勉強します。

1587年(天正十五年)1月、成政、大坂の津田宗及(つだ そうぎゅう)邸(てい=やしき)での茶会に招かれました。同月、秀吉、諸大名(しょだいみょう=多くの大名)に九州(きゅうしゅう)征伐(せいばつ=反逆する者などをせめうつこと)の準備を命じました。3月、秀吉、二十万の大軍を率いて大坂を出陣(しゅつじん=戦争に出向くこと)し、成政も従軍(じゅうぐん=軍隊に従って戦地に行くこと)しました。同月、秀吉、大軍を二手にわけ、みずからは豊前小倉(現在の福岡県北九州市小倉北区(ふくおかけん きたきゅうしゅうし こくらきたく))から筑前(ちくぜん=現在の福岡県西部)・筑後(ちくご=現在の福岡県南部)・肥後隈本(ひごくまもと=現在の熊本県)をへて薩摩川内(さつませんだい=現在の鹿児島県薩摩川内市(かごしまけん さつませんだいし))の泰平寺(たいへいじ=鹿児島県薩摩川内市大小路町(かごしまけん さつませんだいし おおしょうじちょう)にある寺)に本営(総大将・総指揮官がいる陣営)を構えました。成政、郡山城(奈良県大和郡山市(ならけん やまとこおりやまし)にあった城)主・羽柴秀長(はしば ひでなが)軍に属して豊後府内(現在の大分県大分市(おおいたけん おおいたし))・日向(ひゅうが=現在の宮崎県(みやざきけん))をへて薩摩へ出陣(戦争にむかうこと)しました。5月、島津義久(しまづ よしひさ)、弟の義弘(よしひろ)に家督(かとく=あととり)を譲り(ゆずり)、秀吉に降伏(こうふく=戦いに負けたことを認めて、相手に従うこと)しました。秀吉、大坂へ帰る途中、6月、肥後の南関(なんかん=現在の熊本県玉名郡南関町(たまなぐん なんかんまち))で、成政を肥後一国領主(肥後国主)に命じました。成政は隈本城(くまもと じょう=のちの熊本城)に入りました。同月、秀吉、成政に五カ条の掟書(おきてがき=公布法の一形式)を出しました。肥後国五十二人の国人には先規(せんき=以前からのしきたり)のごとく知行(領地や財産を直接支配すること)が安堵(物事がうまく行って安心すること)されていること、三年以内には検地(けんち=土地調査)をしないこと、百姓(ひゃくしょう)をいためないようにすること、一揆(いっき=幕府などに反抗し、地侍・農民・信徒らが起こした暴動)をおこさせないようにすること、上方普請(じょうほうふしん)を三年間免除(めんじょ=義務などを果たさなくてもよいと許すこと)すること、でした。成政、越中(えっちゅう=現在の富山県)からつれてきた家臣(かしん=けらい)たちにあたえる所領()がなかったため、秀吉の五カ条の掟書を破って検地を実施(じっし=計画を実行にうつすこと)しました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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