ここでは、1586年に、佐々成政(さっさ なりまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1586年(天正十四年)3月、成政、秀吉(ひでよし)の使者として豊後(ぶんご=大分県(おおいたけん)大部分(宇佐市(うさし)・中津市(なかつし)除く)の大友宗麟(おおとも そうりん)のもとに赴き(おもむき)、九州(きゅうしゅう)の諸将(しょしょう=多くの将軍、大将)に「秀吉の御家人(ごけにん=戦国大名(15世紀末から16世紀末(戦国時代))の家臣(かしん=けらい))になれば本領(ほんりょう=本来の持ち前)を安堵(あんど=物事がうまく行って安心すること)しました。従わなければ征伐(せいばつ=反逆するものなどをせめうつこと)する」と伝えました。秀吉の下知(げち=命令)に従ったのは大友宗麟の子・義統(よしむね)、立花統虎(たちばな むねとら)、高橋紹運(たかはし じょううん)、筑紫広門(つくし ひろかど)だけでした。5月、成政、塚谷三蔵(つかたに さんぞう)に知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう=主君から家臣に対し与えられた文書)を与えました。8月、成政、日光坊(=中新川郡立山町、芦峅寺)に寄進状(きしんじょう=寄進の趣旨(しゅし=ある事をする理由・目的)および品目などを書いた文書)を与えました。
以上諸説あり。